早くも指摘される「菅義偉首相」の弱点 このままでは短期政権になると言われるワケ
10億円の演説
伊藤は池田のスピーチライターとしても才能を発揮した。
60年10月、日本社会党の委員長だった浅沼稲次郎(1898~1960)を17歳の少年が刺殺するという事件が発生。池田が衆議院で読み上げた追悼演説は伊藤が執筆したものだ。
その追悼演説で、最も話題になった箇所を引用しよう。
《君は、また、大衆のために奉仕することをその政治的信条としておられました。文字通り東奔西走、比類なき雄弁と情熱をもって直接国民大衆に訴え続けられたのであります。
沼は演説百姓よ
よごれた服にボロカバン
きょうは本所の公会堂
あすは京都の辻の寺
これは、大正末年、日労党結成当時、浅沼君の友人がうたったものであります》(註:文中の旧字を新字に改めた)
名スピーチと高く評価されただけでなく、国会の演説で詩の引用は珍しいと大きな注目を集めた。池田は「5億円か10億円の価値があった」と満足したという。
後藤田正晴の活躍
次の佐藤栄作(1901~1975)は、田中角栄(1918~1993)と福田赳夫(1905~1995)を競わせ、長期政権の礎を築いたことは有名な話だ。
72年、首相に就任した田中だが、金脈問題で有権者の支持が離反、74年に退陣へ追い込まれた。
だが、その後も権勢をほしいままにし、“キングメーカー”として長く自民党に君臨した。
1984年12月の朝日新聞は、田中の《側近中の側近》として秘書だった早坂茂三(1930~2004)の名を記した。
更に《腹心》は二階堂進(1909~2000)と、後藤田正晴(1914~2005)の2人を挙げている(84年12月20日「消えた自重自戒:上 有罪判決で田中があえて選んだ道は(田中支配:21)」)。
「中曽根康弘(1918~2019)は党総裁選に勝利すると、その後藤田に官房長官就任を要請します。普通は自派閥から選ぶのが慣例でしたが、後藤田は田中派。おまけに旧内務省で中曽根の先輩でした。後藤田は当初は固辞しますが、それほど異例の人事だったのです。ところが最終的に後藤田が受諾すると、たちまち首相の懐刀として抜群の働きを示し、政権の長期化に大きく寄与したのです」(同)
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