「アントニオ猪木vs大木金太郎」で反日感情を操った朴正煕大統領
「いかなる日韓戦も必ず勝たなければならない」という強迫観念
1970年代の韓国は、政治的には朴正熙(パク・チョンヒ)元大統領が1972年に維新を宣言し、「韓国的民主主義」という名分を掲げたが、国民の基本権を抑圧し、長期的な独裁体制を構築していた時期だった。この維新体制に市民たちは絶えず抵抗し、大学を中心に維新撤廃と韓国社会の民主化を求める各界各層の抵抗運動が激しく起こった。大学に警察が常駐していた時代だ――。日韓関係史が専門の評論家・李東原氏の論考。
朴正熙維新政権は緊急措置権を発動し、スパイ団事件を捏造するなど、反政府勢力を無残に弾圧した。この過程で多くの人が死亡し、または投獄された。
この当時、朴正熙政権に抵抗した人物たちは、後のいわゆる金泳三(キム・ヨンサム)の「文民政府」、金大中(キム・デジュン)のいわゆる「国民の政権」の主役になった。
そして朴正煕は、私が小学校6年生だった1979年、青瓦台近くの宮井洞(クンジョンドン)の安全家屋(安家)にて設けられた宴の席で、部下だった金載圭(キム・ジェギュ)の銃弾によって悲惨な最期を迎えた。
朴正熙時代が残した記憶と傷、そして遺産の量は、他のどの時代が残したものとも比較できないほど大きく深い。
保守勢力にとって1970年代のいわゆる維新時代(1972~1979年)は、韓国社会の近代化(産業化)の基礎を作った栄光の時期だった。
一方、進歩勢力には1948年、制憲憲法が規定した民主主義が圧殺された、汚辱の時期だった。
両者の立場は、1970年代に韓国社会が経験した近代化の過程を肯定するか否定するかの違いはあるが、いずれも政治領域に中心を置いて、維新時代を把握しているという点で共通している。
その一方で、韓国の1970年代は1965年の日韓基本協定締結後、国内に流入した莫大な日本の資金とベトナム派兵の特需によって韓国経済の土台が作られ、その土台の上で圧縮成長という未曾有の経験をしながら、韓国人の生活と文化が大きく変わり始めた時期でもあるのだ。
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