灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(118・最終回)
藤原義江の息づかいをいまだ感じさせてくれる場所に、都内では帝国ホテルや小川軒、そして山口県下関には「藤原義江記念館」がある。義江の父親、英国人ネール・ブロディ・リードが「ホーム・リンガー商会」の支店長だった関係で、幼少の頃に暮らしたゆかりの地である。
「多くの人に見てもらいたい」
と義江を看取った三上孝子がたくさんの遺品を寄贈したものが中心に公開されている。
記念館の一角に、義江のコレクション「銀の匙」の一部が飾られている。
何気なく飾られているスプーンであるが、これはただの収集ではなく、1本1本に義江の抱いた女が投影されているそうだ。
藤原義江記念館は、義江をめぐる女の勝者だった三上の尽力や意向が絶大なために、妻だった藤原あきや、ましてや愛人の砂原美智子との憎愛などはあまり語られず、真正面からの「我らのテナー」を伝えるが、逆に裏の見かたで来館するのも興味深い。
昭和53(1978)年から開館するこの記念館は、関門海峡を見下ろす小さな丘にあり、昭和11(1936)年築の建物であり、昨今では運営がより大変になるので機会があれば是非訪れてほしい。
男をめぐる女の世界でも歴史は勝者が作っていく。
それは政治の世界であれば、なおのことだ。
「才女だったなあ。頭の切れる人だった」
と藤山愛一郎はあきを懐かしむ。
3度の総裁公選出馬、池田勇人首相の病気による総裁裁定と、藤山は18年の議員生活の中の6年間を、総理の座を獲るべく全身全霊で戦った。
あきが急死したことは藤山にとって総理総裁の座をあきらめる決定打となった。
岸信介、池田勇人、佐藤栄作と首相が続く高度成長期の政治は、実に生臭い人間関係のなかカネという実弾が飛びかい、今もって興味深く語られる。
あとから歴史を振り返れば、岸信介から長期政権となる佐藤栄作の間に藤山が入れる隙は少しもなかったように感じられる。
歴史は勝者が塗り替えた。
カネの切れ目として「井戸塀議員」が総裁選をあきらめた体になっているが、あきという側近を失ったことが大きい。
そのことは、男社会を語る政治史には一言も書かれていない。
藤山を総理にするために、藤原あきという女性議員が、命を削るように尽力したことがほとんど語られないのは、厳しい言い方をすれば、藤山が勝者(総理)になれなかったからだ。
藤山が総裁選に出馬したのは、昭和41(1966)年が最後となったが、その後も自民党の国会議員でありつづけ、その間3回の総裁選が行われた。
田中角栄総理になるまでの最初の2回の総裁選では、「藤山愛一郎」という票が1票ずつ入っているが、それは藤山が自らの名を書いた意地の1票だったかもしれない。
当時、永田町を取材した記者によると、議場の上から眺めると禿げ頭が多く藤山の白髪は異様に目立ったという。吉田茂元総理の息のかかった吉田学校出身者が本流であるとみなされる永田町において、財界からの藤山は稀有な存在だった。
岸信介との仲は最後まで修正できなかった。
「大臣になるための道具として派閥があるのではないか」
と自らの党を批判し、
「日本人の素質は我慢するときは我慢し、苦労に耐え、試練に反発していく力を持っている民族、国民だ。与野党とも、ほんとうに国民のためを思う政治をやらなければ、日本人の優れた資質は生かされない。いまこそ政党人に、大局を見据えての思いきった政策と決断と実行とが求められている」
との訴えは終生ぶれることはなかったが、ついぞ主流にはなれなかった。
実弾を使い、権力闘争を戦った藤山。
いつの時代もカネが政治不信の原因となっている。
「政治に使ったカネは自分のカネだからといって、自分だけは清潔だったというつもりはない」
と回顧する。
「なぜなら使い方という点ではほかの人たちとおなじだからである」
と。
藤山愛一郎(1897~1985)、享年87。
舌にできた腫瘍のため18年間の議員生活を卒業し、その後隠居生活は10年間。大好きな絵を描いて穏やかに暮らした。
かつての権力闘争の話を持ち出されると、
「絹のハンカチも泥にまみれたよ」
と穏やかに笑っていた。
あきが暮らした永田町2丁目の広大な敷地は、あきの人生よりも波乱に満ちたものになった。
あきの兄が売却したあとは料亭「幸楽」となり、「二・ニ六事件」の舞台となった。
あきたちが暮らしたままの姿で使用されていたが、東京大空襲で灰となり、藤山の手により「ホテルニュージャパン」が建設された。
ところが、藤山コンツェルンも藤山が政治に入れあげたため、最後の砦として売却せざるをえなくなった。かつて「乗っ取り屋」と呼ばれた横井英樹が購入した3年後、死者33人を出したあの大火災となった。
藤山派の栄枯盛衰をみまもってきた9回のフロアは、そのまま藤山の本や書類などを置く事務所となっていたが、すべて灰になってしまった。慶応大学に寄付することが決まっていた矢先だったという。
「二・ニ六事件のお祓いをしなかったからだ」「俺は悪くない」と言っていた横井は非難されたまま時代は平成を迎えた。
蝶ネクタイ姿の横井は、藤山の影を愛しむように藤山邸だった白金の「シェラトン都ホテル東京」をたびたび訪れ、孫のような若い女たちとの逢瀬の場所に使っていた。
余談ではあるが、ホテル跡地は、平成5(1993)年に来日した実業家「ドナルド・トランプ」と横井との間で「トランプタワー・トウキョウ」が建設される話し合いも進んだことがあったが、立ち消えとなった。
藤山は自らの総裁公選のためにいとこのあきを出馬させたが、その考えは世襲や高級官僚が主流の候補者で占められる自民党の中で、党内をもあっと言わせる候補者選びだった。
還暦を過ぎてから財界から政界に入った藤山の柔軟な発想と言える。
あき亡き後の藤山はすっかり総裁選へのやる気を失ったが、自民党はヤナギの下の二匹目のドジョウを狙っていた。
あきの総裁選での活躍は語られないが、あきはそれから脈々と続いていく「タレント議員」の元祖ということになった。
そもそも「タレント議員」という言葉は微量の悪意が含まれた呼び方であるが、そんなことは百も承知のあき自身は生前、「タレント議員で結構よ」と発言していた。
昭和43(1968)年の参議院選挙にむけ、亡くなったあきの116万票は他党に渡すことはできないと、福田赳夫幹事長はあきを継ぐ候補者探しに躍起になった。
「今、美人を口説いているんだ」
という冗談まで飛び出した。
幹事長が声をかけた女性は、テレビで名が売れている弁舌さわやかで華があり、バックボーン(組織)のある10人の女性だった。
華道の草月流・家元後継者の「勅使河原霞」。美しさに組織力も加わり、門下生は40万人いる。
「塩月弥栄子」はお茶の家元の娘であり、何百万という弟子がいる。それより何より、あきが『私の秘密』を降板したあとの後任者としてお茶の間に浸透している人物だ。
「江上トミ」は、江上料理学院の校長で、テレビの料理番組では「料理のおばさん」として人気を博している。
「安西愛子」は「うたのおばさん」として『NHK』ラジオに出演。「ドはドーナツのド、レはレモンのレ」と歌っていたが、後に総理になる中曽根康弘作詞の『憲法改正の歌』の吹込みをしたほど、政治に明るい。
そのほか、杉野ドレスメーカー女学院院長杉野芳子、安達式押花家元の「竹腰瞳子」、映画プロデューサーで「ジェスチャー」でお茶の間に大人気を博した「水の江瀧子」。
女優の「木暮実千代」は、サンヨー電機の洗濯機のイメージキャラクター「サンヨー夫人」として知られていた。
「江上フジ」は婦人問題研究科。
そして「竹腰美代子」はテレビの美容体操の草分けだ。
躍起になって声をかけた女性たちは福田幹事長の口説きには落ちず、昭和43年の参議院選には誰ひとり出馬をしなかった。
その参議院選挙でさっそうと登場し話題をさらったのは、作家で映画監督、ヨットマンで、俳優の石原裕次郎の兄、石原慎太郎だった。
あきの秘書だった飯島や杉浦はあきの死後、藤山事務所に在籍していたが、石原の政治団体「日本の新しい世代の会」を手伝うこととなり、そのまま石原慎太郎秘書となった。
白いブレザーに日の丸をつけた36歳の石原は、史上初という300万票以上を獲得し、あきの記録はあっさりと塗り替えられた。
東京にはあきの息づかいを感じさせてくれる場所もまだたくさんある。
氷川町の藤原歌劇団の跡地は三井が建てた低層の高級マンションになっているが、そのまま残る石灯篭は、あきが家を飛び出たときのまま変わらぬ姿で存在する。
赤坂見附弁慶橋、永田町、文京区安藤坂、「NHKホール」のあった内幸町、そして銀座資生堂。
姦通という罪があった時代に、名誉ある医師夫人の座を捨て、2人の娘をおいて藤原義江のいるイタリーに消えた。
義江と再婚という「もう死んでもいい」というほどの夢の生活が始まった。それから30年。
長く続いた義江の浮気かはたまた本気の恋は、終わりを見せることがなく、あきは家を飛び出た。あきが三行半を突き付けたといえば聞こえが良いが、あきは義江に捨てられたのだ。
還暦近くなり、世間では「初老の女」とあつかわれる年になって、たったひとりになった。
長い年数を誰かの女として、誰かの夫人として生きてきたあきにとって、ひとり生きることは目隠しされ暗闇の中に放りこまれるようなものだった。
「女は家庭が平和であれば、いつまでも美しくいられる」
と女の幸せは家庭にあると信じ、明治の封建的な家庭に育った女にとって、「自立して働く」という文字は辞書になかった。
だれもがあきの華やかな人生はそこで終焉をむかえると思った。
しかし義江と別れてから、あきの本当の人生が始まった。
生きていくため、食べていくためには仕方のないことだったにもかかわらず。
オペラに全財産をつぎ込んだ夫の義江、政治に全財産をつぎ込んだいとこの藤山と、あきの周りにはいつも全力投球の男たちがいた。
あきの人生で最も多く語られてきたことは、「我らのテナー」の藤原義江夫人になったことだった。
しかし、あきを語るうえでそれ以上に重要なのは、ひとりになってから生きる道を切り開いていったことだ。
それは15年間にも満たないもので、議員生活は憲政史の中で5年と1カ月という短い期間であったが、権力闘争の中で真剣に戦ったあきが残していったものは、凝縮された灼熱の人生であり、これからを生きる人たちの道しるべとして大きな勇気を与えてくれるに違いない。(完)