「旧華族」の女性たち…民間人との結婚・離婚が大ニュースに
間男された元宮様が新聞記者の取材を受ける
閑院宮載仁親王の第5王女である華子が、伏見宮第3王子、華頂博信と結婚したのは大正15年12月のことである。
二人は助け合って激動の時代を生き抜き、その後も末永く幸せに暮らしました――と言いたいところだが、昭和26年夏、華子は家を出る。「ノラ2号」である。
2男1女を儲けた旧皇族夫妻の間に何があったのか。
〈華頂博信氏(元伏見宮)が離婚 銀婚式前に社交好みの夫人と性格合わず〉
昭和26年8月9日、毎日新聞は社会面でそう報じた。
〈突然の離婚の原因について華頂氏は、「性格が正反対の二人がこれ以上一緒に暮らすのはお互いの不幸だと悟ったのです。形式的な皇族結婚のカラを破って出てはじめて人間らしい自由を得たような気がします」と語るのだった〉
この時点では真相はまだ藪の中であるが、2週間後、事態は風雲急を告げる。
〈華頂氏夫妻/離婚の真相“斜陽階級の悲劇 華子は世間知らずだった”〉(毎日新聞26年8月21日)
何と、華子の実兄である閑院純仁(元閑院宮春仁王)が、小田原の自邸で取材に応じ、「離婚は幸か不幸か」という一文まで公表したのである。
〈実は七月廿日、突然華頂氏から華子を引きとってくれとの話を聞かされ、この問題には戸田豊太郎(華子が副会長を務める日本衛生婦人会のスポンサー的存在)という人物が介在していることが判った〉
〈そこで私は考えた。いわば私的出来事ではあるが、こういう結果となったのも、一つには戦後の頽廃した世相が生んだ社会問題だと思ったので外聞や体裁をつくろう心持をすてて世に訴える気になったのだ。華子は年齢は四十を超えているが、戦後はじめて世の中にじかにふれたいわばアプレである〉
〈私が華頂氏から話を聞かされる二日前の十八日、戸田氏と華子の間にはよそ目にもはばかるような事件が起こった。華頂氏は激怒した。そしてこの結果になったのだった〉
法律上は泥棒や人殺し程悪いことをしたとは思っておりません
戸田豊太郎と華頂華子の間に何があったのか。読者の期待はいやがうえにも高まる。
と、翌22日、再び華頂博信が毎日新聞に登場。
〈私は離婚せざるを得ない 華頂氏が“夫の苦悩”を告白〉
社会面のほぼ全てを埋め尽くす記事には、手記を執筆中の博信と、間男された父親を慈愛の眼差しで見つめる令娘の写真まで掲版されている。
〈閑院氏が明らかにした離婚の真相『七月十八日夜の事件』――。それは博信氏にとって余りにも痛ましい血のふくような追憶であった〉
華頂博信は、取材に訪れた記者を客間に附属するクローク・ルームに案内する。
〈『このイスも床もまだあの日のままです――』やっとの思いで博信氏はそれだけいうと、じっと眼をつむってしまった〉
この部屋で、アプレに成り下がった妻の不貞を目撃してしまったというのである。
〈それは七月十八日も深夜であった。その日、夕方から来邸して華子と用談中の戸田氏がなかなか辞去する気配がない。もう大分遅いようだからとそれとなく帰宅を促そうと客間に行って見た二人の姿は見えなかった〉
〈私は附属のクローク・ルームを何気なく開けてみた。――そして私は、そこに見てはならない戸田氏と華子との姿を発見したのだ〉
〈夫である私は半狂乱になったことを記憶している。翌朝我に返った時、客間のフロアーには血糊が飛散し、私は病院で骨折の手当を受けた〉
怒りを抑え、翌日、博信は妻の華子と話し合う。
〈私の問 『昨夜の出来事について華子はいま大変悪いことをしたと思っているか。私に対して大変済まないことをしたと思っているか』
〈妻の答 『法律上は泥棒や人殺し程悪いことをしたとは思っておりません。虫のよい話ですが、私は今後長男の部屋に寝てもよろしうございますから引き続きこの家に住まい、衛生婦人会の仕事をやってゆきたいと思います』〉
博信は妻の答えに愕然とする。その仕事を続ける限り、戸田との接触は続くのだ。
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