「旧華族」の女性たち…民間人との結婚・離婚が大ニュースに
格式の高い、堅苦しい家に嫁いだ公爵近衛文麿の長女・昭子
GHQによって解放された日本は自由な国へと生まれ変わり、自由恋愛を謳歌する人間が急増した。皇族や華族だった人たちもその例に漏れない。いや、むしろ我々以上にお盛んだったとも言える。とりわけ、半ば強制的に結婚させられていた女性たちは、お上品な亭主に飽き足らず、次々に名家を後にした。イプセンの戯曲『人形の家』を地で行った女性たちの戦後は……。
※2001年7月5日号に掲載された記事を再編集したもので、肩書や年齢は当時のママです。
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戯曲『人形の家』は、発表と同時に轟々たる世評を呼んだ。
夫のもとを去って家を出るヒロインのノラは、女の風上にも置けない不埒者と非難された一方、新時代の女性の典型とも賛美されたのである。
旧華族の中にも離婚経験者は少なくないが、その中で戦後の「ノラ1号」の称号を与えるに相応しいのは元公爵近衛文麿の長女、昭子であろう。
昭子が、「五摂家一」とされる近衛家から、旧公爵家である島津忠秀のもとへ嫁いだのは19歳の時である。
「嫁ぎ先は、華族の中でも最も格式が高いとされる島津家の本家であり、(昭和天皇と香淳皇后の第5皇女子である)清宮貴子内親王が嫁いだ島津久永氏の家は分家」(島津家に近い人物)
というほど格式の高い、早い話が堅苦しい家であった。そのことについて、昭子はかつて本誌にこう語っている。
「嫁いだ先は大きな大名華族だったのですが、公家の生活と武家の生活っていうのはまた違うのね。公家華族にはない、主従の関係の固さがあるの。お国もとから選りすぐられて、お家のために一生を捧げて惜しまないという人たちが仕えて、その人たちは子供の一人ひとりについて、子供の一生につくの」
その忠義心は大変なもので、子供が花瓶を割っても、お付が“私が割りました”と申し出てくるほどだった。
野口晴哉に指圧を受けながら心のツボまで刺激され
昭子はそんな島津家での生活に疑問を感じ始め、やがて別の男性に心を奪われるようになる。相手は、島津家に出入りしていた指圧師だった。
指圧を受けながら話をしているうちに、心のツボまで刺激された昭子は、空襲の激しいさなか、子供たちを残したまま島津家を出る。
「離婚が成立したのは戦後になってからですが、日本の敗戦がなければ起こり得なかった最上流階級のスキャンダルでした」(先の人物)
戦後、晴れて指圧師である野口晴哉と再婚した昭子は幸せであった。
夫の仕事を手伝いながら四人の男の子を儲け、子育てにも精を出した。花瓶を割ったと名乗り出てくる、お節介な家臣もいなかったから、子供たちも人の道を踏み外すことはなかった。
昭和51年に、師でもあった夫が他界すると、昭子は整体協会の名誉会長に就任し、もう一度本誌の取材を受けた。
「華族の中にいると、華族の良くない面がなかなか分からない。それが野口先生に会って分かったような気がします」
「野口先生と一緒になったことについては、なるようになったとしか言いようがないですね。自分の自然な気持ちに従っただけのことじゃないかしら。全然バックも何もないゼロの中から、たった一人で信じるところをやっていく姿に感動した、生き方に共鳴したというか……」
「先生と過ごした35年間を振り返って思うことは、これ以外なかったということだけです。それが間違っていようといまいと、これ以外になかった、としか言えません。しかし、これ以外にないというものを見つけられたのは幸せでした。自分は幸せだったと思います」
雅の世界から抜け出したノラはまだまだいる。久邇宮朝融王(故良子皇太后の兄)の長女である正子は、久邇宮多嘉王の3男徳彦と結婚。
41年、男子のいなかった梨本家へ夫婦で養子に入ったものの、家裁での調停を経て、55年に離婚している。
離婚の理由は、前夫によれば「妻が宗教に凝ったため」
そして、元伯爵家令嬢、山本満喜子の異名は「炎の女」。昭和8年、明治生命の創業者一族の息子と結婚したものの、7年後に離婚し、1歳半の息子を連れて家を出る。
「学習院一の不良娘」だった彼女は、キューバの英雄に会うために5日間も張り込みを続けてカストロと懇意になり、日本キューバ文化交流研究所を設立。
平成5年、80歳でメキシコにて客死するが、天衣無縫の自由人で、自ら「私はノラよ」と公言していた。
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