「加山雄三」の母、「板東英二」の妻も…民間に流出した「旧華族」の血
実は結婚前からある華族の男性と付き合っており…
「目黒の実家の敷地は200 0坪。部屋がいくつもあって、台所から奥の部屋に料理を運んでいる間に、みそ汁が冷めてしまうほどの広さだったのですよ。使用人は家族一人ひとりに付いていました」
店の方は6坪。10人も入れば満員だ。
女子学習院で唯一パーマをかけていたという塩田多栄子ママは、昭和17年、外科医の塩田輝重と結婚。
日医大の学長だった義父は、浜口雄幸首相が東京駅で狙撃された時、日本で初めて輸血をしながら手術をしたことで有名な外科医の権威だった。
が、8年、夫が脳腫瘍で他界したことから、親戚中の反対を押し切って夜の蝶になる。
「開店以来、ずっと順調でしたのよ。そのおかげで、渋谷にマンションを買うことも出来ました」
平成7年、得意客の高齢化に伴い、『藤つぼ』は惜しまれつつも閉店。本誌のかつての名物コラム『クラブ』の担当者によれば、ちょっと古風で気品のある、年配者向けの店だったそうである。
韓国の王族、李鍵公は日韓併合後に公家(こうけ・準皇族)となり、戦後、日本国籍を取得して桃山虔一と名乗った。
その李鍵公の元に嫁いだのが、松平胖(ゆたか)元伯爵の長女、佳子である。佳子は秩父宮妃の従姉妹に当たる。
佳子は昭和6年に結婚し、3人の子を産む。再び河原敏明が語る。
「結婚して1年余りが過ぎ、長男に恵まれた虔一は、これで公家は安泰だと喜んだのですが、やがて太平洋戦争が始まり、空襲の被害に備えて血液検査をしたところ、自分の子供ではないことが分かったのです。実は佳子は結婚前からある華族の男性と付き合っており、結婚後もその男と密会していたのです」
明治天皇のご落胤を名乗る、炭鉱夫の息子と同棲
〈殿下(虔一)は驚倒せんばかりだったが、国を挙げて戦っている時に、事をあらだてては皇室が大きく傷つく。出身が異国だっただけに遠慮も働き、(中略)屈辱に耐えたのである。しかし、戦後の妻の態度に堪忍袋の緒が切れた。(中略)いまはこれまで、と二十六年ついに離婚に踏み切ったのだった〉(『美智子さまと皇族たち』河原敏明著)
儒教の国だけに、韓国に知れたら、教科書問題どころの騒ぎではない。
離縁された佳子は『佳(よし)の路』という店を出すなどして奮闘するが、39年に店を畳み、忽然と姿を消す。
「銀座2丁目の『佳の路』には私も行ったことがありますが、桃山佳子さんとは昭和54年に偶然に再会しました。彼女は明治天皇のご落胤を名乗る、橘天敬という炭鉱夫の息子と同棲していたのです。橘とは雑誌の対談で会いました。その時“100万円出すから俺の本を書いてくれ”と言われ、橘が住んでいたマンションに行ったところ、そこに佳子さんがいたのです」
「彼女は橘のことを尊敬しており、彼に仕えているような感じでした。その後、橘は宗教を始め、品川区の雅叙苑マンション内に祭壇のようなものを作ったりしていました。その橘が亡くなると、彼女は立川の方にある宗教に通っていましたが、いまは松平姓を名乗って横須賀に住んでいるようです」
愛人の先輩を射殺した元子爵令嬢、綾小路章子の例もあるから、不倫やインキチ宗教に走るくらい、どうということもないような気もするけれど、次週は日本版「ビューティフル・ピープル」の、まさかと思うような脱線の数々をお届けしよう。(敬称略)
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