「加山雄三」の母、「板東英二」の妻も…民間に流出した「旧華族」の血
昭和天皇の義兄に嫁いだ、6畳一間の「お姫様」
天皇崩御から2週間後の平成元年1月9日、足立区竹の塚の木造アパートに住む独り暮らしの老女がひっそりと息を引き取った。
老女から、「苦しい」と訴えられた1階の住人はすぐに救急車を呼んだが、救急隊員よりも先にやって来たのは創価学会の信者たちだった。
その夜、老女は搬送先の病院で他界した。享年80。気の毒ではあるが、真冬だし、ここまではよくあることだ。
しかし――老女を単なる学会信者だと思っていたアパートの住人たちは、本誌『墓碑銘』欄担当記者の来訪を受けて驚愕した。
2階に住んでいたのは誰あろう、大正天皇の侍従、松浦(まつら)靖(はかる)の娘にして久邇宮邦久王の元妻、松浦董子(ただこ)その人だったのである。
久邇宮家は良子(ながこ)皇后(当時)の生家であり、邦久は皇后の兄である。
次男であったため、臣籍降下して久邇侯爵家の当主となっていたが、昭和3年に邦久と結婚した董子は、昭和天皇の義兄に嫁いだことになるのだ。
本誌記者もまた驚愕した。
何しろ、その養子の終(つい)の棲家となったのは、築年数も定かではない、老朽化した6畳一間のアパートだ。
バブルの最盛期だというのに、家賃はたったの3万円。しかも董子は生活保護を受けていたのである。
葬儀にも参列した皇室ジャーナリスト、河原敏明の話。
「初婚の相手である久邇邦久侯爵には癇癪の持病があった。先に嫁いだ島津公爵の娘は、夫の病気のせいですぐに逃げ帰り、その後に嫁いだのが董子さんです。この結婚により、彼女は良子皇后の義姉になったわけですが、邦久氏は昭和10年に風呂場で亡くなってしまう。そのことで、董子さんは“妻なら夫が風呂から出てこなかったら、見に行けばよかったではないか”と皇后に叱られたそうです」
「ロングドレスを着たりして、育ちのいい人だとは思っていました」
邦久の死後、董子は20年間未亡人として過ごすが、31年、旧皇族である賀陽恒憲夫妻の勧めに従い、自民党代議士の山本猛夫の後妻になる。
しかし、この結婚も3年ほどで破局(離婚は10年後)。
「薫子さんから直接聞きましたが、山本は浮気がひどく、選挙などの宣伝に彼女を利用したというのです。離婚後の人生は悲惨でした。病院の付添い婦となり、生活保護をもらう有り様で……」(前出・河原)
子供のない董子の生きがいは創価学会への信仰だった。が、最終的には頼りにしていた実兄からも縁を切られてしまった。同じアパートに住む隣人によれば、それでも気品だけは最後まで失っていなかったという。
「風呂がついていないので銭湯に通い、よくファミレスで食事をしていました。銭湯に通うにしても、ロングドレスを着たりして、育ちのいい人だとは思っていました」
ちなみに、松浦董子の母、節子(さだこ)は東京府知事を務めた久我(こが)侯爵家の次女であり、戦後、「侯爵令嬢銀幕に登場」と騒がれた女優、久我美子の大叔母に当たる。
小佐野賢治の妻が「学習院一」なら、久我美子は旧華族913家中随一の美女といえるかもしれない。あの気品は、やはり血だったのである。
とはいえ、旧華族の娘がスクリーン・デビューしても、必ずしも気品ある役柄を与えられるとは限らない。
元子爵、小笠原長生の孫に当る松井康子は、学習院大1年の時に映画界入りしたものの、ビンク映画に出たため、実家から出入り禁止を申し渡された。
家族の切なる願いも虚しく、作品『妾』がヒット。なかなか色っぽい女性で、「ピンクの山本富士子」と呼ばれ、脇役ながら『愛のコリーダ』にも出演した。
水商売に走った女性もいる。
GHQの実力者ケーディスの愛人だった元子爵夫人、鳥尾多江が銀座に出した『鳥尾夫人』はあまりにも有名だが、新橋にも元子爵家令嬢がママをしているバー『藤つぼ』があった。
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