「自民党の悪いところは全て見た」政治家・菅義偉 異例のロングインタビュー【緊急公開】
自民党の悪いところはすべて見た
無所属で立候補すると腹を決め、小此木事務所に辞表を提出した。
1988年4月の投票日のちょうど1年前に、菅は選挙区の西区に引越しをし、たった一人で準備を始めた。
後援会作りも難航した。地元の有力者は、長老市議を恐れて、誰も菅を応援しようとしなかったからだ。選挙区内で後援会長を見つけられなかった菅は、秘書時代に付き合いのあった隣の選挙区の会社社長に後援会長を引き受けてもらった。
「当時、私の選挙区の市議は皆60代以上で高齢化していたから、30代という若さはそれだけで武器になると確信していた。そこに勝機をみて、若さを前面に押し出そうと。あとは、『おれは運がいいんだ』と、いま思えば根拠はなかったけれどそれを信じました」
菅は選挙区をくまなく回った。
選挙区の西区には、箱根駅伝のルートの一部が存在する。駅伝大会の日には、沿道で応援する人々に挨拶をしながら、何キロも歩いた。毎日300軒を訪問して歩く傍ら、選挙区内に3軒あった葬儀屋に日参して選挙区内の葬儀の情報を集め、弔問にも欠かさず訪れた。
そして半年が過ぎたある日、長老議員は再び決意を翻し、市議選の立候補を取りやめると発表した。
「この日が10月10日。偶然大安吉日だったんです。これはますます風向きが良くなったと思った。しかし、自民党は公認選びが二転三転して、混乱を極めていたわけです。無所属で出る私に、混乱の責任をとって立候補を取りやめろと迫ってきた人もいました。自民党の悪いところ嫌なところはこのときすべて見ました」
秘書時代の11年間を尽くしてきた自民党からの冷たい仕打ちに耐え、菅は選挙運動をやりぬいた。そして、投票日の直前になって、土壇場で自民党は菅を公認候補としたのだった。
選挙の結果は8813票を獲得し、2位当選。菅の選対事務所には大勢の支持者が集まった。万歳をする前に、後援会長は「この中で菅さんが当選すると思っていた人は誰もいないでしょう」と言って、皆を笑わせた。
「結果的にまったくしがらみがない状態で市議会に入れたので、恐いものはなかったです。言いたいことを言えました」
2期目の選挙では得票を5割も伸ばし、自民党横浜市議の若手のリーダー格になった。
菅は次第に、国政への進出を考えるようになる。国に財源や権限が握られている中央集権体制に強く疑問を抱いたからだ。
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