「安楽死事件」からいまこそ終末期医療の冷静な議論を 医療崩壊(41)

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 安楽死を巡る議論が続いている。筆者にも多くのメディアから連絡があった。それは、逮捕された大久保愉一容疑者(42)と旧知だったからだ。7月23日に筋萎縮性側索硬化症(ALS)の女性の嘱託殺人で京都府警に逮捕された人物だ。

 筆者と大久保容疑者は、彼が厚生労働省の医系技官であった頃からの十年来の付き合いだ。真面目で正義感が強く信頼出来る人物だった。常に日本の医療をよくしたいと考えていた。

 彼が医系技官を退職するときに送ってきたメールには、

「3月末に辞めるまでに何かを残せたらと思います。医師が自ら律するようになり、国試をいずれ肩代わりするまでつなぎになるような何かを。せこい話ではありますが、これまでスタックしていたものが動けばよくなり、風通しがよくなり、教育関係者の士気が上がり、学生のやる気にもつながるのではと考えています。国任せではなく、自分たちで考える環境づくりに一役買えるのではと思うのです」

 とあった。

 大久保容疑者は、厚労省が管理する医師国家試験のあり方に疑問を感じていた。問題意識は筆者も同じだった。

 ともかく、腹が据わっていた。彼から聞いた厚労省内の問題を、私は記者に話し、記事になったことがある。彼から貰ったメールには以下のようにあった。

「局内では誰がリークしたのかの犯人捜しが始まっております。課長も憤慨しています。メールの履歴をチェックされて私が処分されそうですが、それはその時考えます」

 私を責めることなく、淡々と業務をこなした。

 これが、私が知る大久保容疑者の姿だ。読者の皆さんが報道から受ける印象とは違うだろう。

 私は、今回の嘱託殺人の詳細を知らない。

 マスコミは、大久保容疑者がツイッターに「ドクターキリコになりたい」と投稿していたなど、彼の変質的な側面を強調している。果たして、そのような動機だけで動いたのだろうか。

 私が知る大久保容疑者なら、相当な覚悟をもってこの件に臨んだことは想像に難くない。それほど、ALS患者の安楽死は重大な問題だからだ。ALSという難病を抱え、死を望む患者に我々はどう接するべきか、当事者によりそい、真剣に考えねばならない。

 ところが、日本はこの問題を避けてきた。

 そして、今回の事件が起こっても、真剣に取り組もうとしていない。中川俊男・日本医師会会長は、「嘱託殺人、安楽死議論の契機にすべきではない」と発言する始末だ。

 今こそ、日本が安楽死を含む終末期医療とどう向き合うか社会で議論すべきである。本稿では、世界の現状をご紹介しよう。

世界が驚いたドイツのケース

 高齢化が進んだ先進国で、終末期のあり方は重大な問題だ。その際、優先されるのは本人の意志だ。「リビング・ウィル」として表明される。

 多くの先進国はリビング・ウィルを基本的人権とみなし、法的に担保している。

 厚労省も最近になって、「アドバンス・ケア・プラニング」(ACP)と言い出した。日本版リビング・ウィルのつもりらしいが、法的根拠はなく、いざ看取りとなると、家族と患者の意向が違えば、柔軟に対応することになるのが現実だ。

 この場合の「柔軟」とは、訴訟を恐れた主治医が患者より家族の意向を優先することを意味する。このあたり、国を挙げて終末期のあり方を議論している欧米先進国とは対照的だ。

 安楽死には、延命治療を中止する消極的安楽死(尊厳死)と、命を終わらせる目的で薬物を投与する積極的安楽死がある。

 今回問題となったのは、後者だ。

 後者にも、医師が処方した致死量の薬剤を患者自身が服用するケースや、医師がセットした点滴のストッパーを患者自らが開く自殺幇助と、医師自身が致死量の薬剤を注射する狭義の積極的安楽死があるが、本稿では両者は区別せず、安楽死として扱う。

 現在、安楽死を許容しているのは、欧州5カ国(オランダ、ベルギー、スイス、ルクセンブルク、ドイツ)、カナダ、オーストラリア(ビクトリア州)、米国(オレゴン、バーモント、モンタナ、カリフォルニア、コロラド、コロンビア特別区、モンタナ州=判例レベル=)などの一部の地域だ。受け入れている国の多くはプロテスタントが強く、「苦しむ患者に憐れみを与えることは神の教えに適う」と考えられているが、カトリックが強い国では「安楽死は神の教えに反する」と考える人が多い。

 しかし最近、このような状況に変化があった。

 今年2月、ドイツ連邦憲法裁判所が安楽死を事実上合法とする判決を下したのだ(職業上の自殺ほう助を禁じた2015年施行の法律が末期患者らの「死に関する自己決定権」を奪うものだと、違憲判断を下した)。

 第2次世界大戦中にナチの医師が約20万人の障害者を「安楽死」との扱いで殺害した過去を持つ国での判決に、世界は驚いた。

 安楽死の規制緩和は、ドイツに限った話ではない。スペインやポルトガルなどのカトリック国でも議論が進んでいる。

 高齢化が進む先進国では、安楽死は避けては通れないテーマなのだ。

米国29歳女性の選択

 こうした方向転換に影響するもう1つの要因がある。それは、「安楽死ツーリズム」の拡大だ。安楽死を望む患者は、自国の体制が整わなければ、国境を超える。

 欧州で安楽死希望者が頼るのがスイスだ。スイスには「ディグニタス」「エグジット」「ライフサークル」といった安楽死を斡旋する団体が存在する。彼らは外国人も受け入れている。

 世界中の著名人が最期を遂げるために頼る「ディグニタス」は有名だ。

 外国人が「ディグニタス」を介して安楽死を遂げる費用は、交通費や滞在費も含めて1000万円を超える。このため、外国での安楽死は一部の金持ちにだけ許された贅沢という印象を頂いている人が多いが、そうではない。

 他の団体は遙かに安い。

「ライフサークル」の場合、年会費は50スイスフラン(約5850円)で、外国人が安楽死する場合の費用は1万スイスフラン(約117万円)だ。経済的ハードルは下がる。

 そして実際、2018年だけでスイスでは221人の外国人が安楽死を遂げた。内訳はドイツ人87人、フランス人31人、英国人24人だ。

 スイスが欧州での「安楽死特区」としての役割を果たすことで、安楽死を望む患者の選択肢を増やしている。これが欧州各国で安楽死の議論が進む理由の1つだ。

 米国も同様の仕組みを有している。

 米国でスイスの役割を果たしているのは、オレゴン州だ。1998年に最初の患者が安楽死で亡くなり、2019年には112人の医師が290の処方箋を書き、188人が死亡した。

 米国で安楽死を希望する患者は、オレゴン州に移住する。その典型例が、進行した脳腫瘍のため2014年11月に29歳で安楽死を遂げたブリタニー・メイナードさんのケースだ。

 彼女はカリフォルニア州在住だったが、安楽死が合法化されていないため、オレゴン州に移住した。安楽死を遂げる1カ月ほど前にはメディアや『YouTube』で決意を表明し、直前にはフェイスブックに、

「本日は末期の脳腫瘍を患う私が、尊厳をもって死ぬために選んだ日です」

 と書き込んだ。その存在を多くのメディアが報じ、米国民が安楽死について真剣に考える契機となったのだ(2014年10月24日『米29歳女性をめぐる「安楽死」大論争:「尊厳をもって生きる」こと』大西睦子著を参照)。

 2019年1月には、ニューメキシコ州で新たな法案が準備された。この法案には、遠隔診療での安楽死の処方も可能とすることが盛り込まれた。こうなると、安楽死のハードルは一気に下がる。

 このようなことが可能なのは、欧州と違い米国では、安楽死に医師が立ち会う義務がないからだ。医師はジゴキシン、ジアゼパム、モルヒネ、アミトリプチンの4種類の薬剤を水やジュースと混合して服用するように処方するだけでよく、実際に立ち会うのは家族やボランティアだ。

 ただ、さすがにこの法案は成立しなかった。米国の教会や共和党関係者が反発したからだ。

 彼らが危惧したのは、安楽死活動グループに相談するだけで、処方箋を書いてくれる医師が見つかり、どの州に住んでいても安楽死できるようになることだった。

 状況が変わったのは、新型コロナウイルスの流行だ。

 対面診療が困難となり、オンライン診療が急増した。安楽死も例外ではない。2月には「終末期の医療支援に関する米国臨床医アカデミー」という団体が結成され、遠隔診療による終末期患者の診療指針が提示された。

 この結果、オンラインで処方された致死量の薬剤を服用し、「Zoom」などの遠隔通信アプリを介してボランティアのサポートを受けて、安楽死することが可能になった。これは、ニューメキシコ州で否定された法案が、安楽死を既に認めている州で成立したことに他ならない。米国での安楽死のあり方は大きく変わる。

アジアを席巻する「安楽死ツーリズム」

 では、アジアはどうだろうか。

 アジアでも安楽死を希望する人は増加している。前出の「ディグニタス」に登録するアジア人は、2018年末時点で香港人36人、韓国人32人、日本人25人、台湾人20人、タイ人20人、シンガポール88人だ。

 2019年5月には、膵臓がんを患った台湾の有名なテレビ司会者・傅達仁が「ディグニタス」を頼って安楽死を遂げ、国内外で広く報じられた。

 意外かもしれないが、アジアでも終末期医療の体制整備が着実に進んでいる。

 台湾では2000年に「ホスピス緩和医療法」が制定され、2016年1月には治療中止の対象を終末期以外にも拡げている。

 韓国も、2018年2月に「尊厳死法」を施行している。これは、患者の自己決定権が法的に担保されていることを意味する。「ACP」という厚労省のスローガンで終わっている日本とは対照的だ。

 ちなみに「ACP」は、厚労省関係者によれば、

「あくまでも医療機関と患者・家族の民民契約であり、行政指導以下」

 でしかない。

 安楽死を認める国も出始めている。オーストラリアだ。2017年11月に「安楽死法」が可決され、昨2019年6月に施行された。同年12月には西オーストラリア州でも同法が可決されている。

 中国でも議論は進んでいる。

 1986年に陝西省漢中で発生した患者の子どもによる安楽死事件以降、全国人民代表大会(全人代)では毎年のように安楽死に関する法律が提案されている。現在、中国では安楽死は違法だが、日本より遙かに規制は緩い。

 たとえば、生命維持装置を外す行為は「消極的安楽死」に分類され、罰せられない。中国でALS患者の安楽死が問題にならないのは、このためだ。また、一部の死刑囚に対しては安楽死を認めている。

 中国の現状を患者の自己決定権の尊重と見なすわけにはいかないが、中国で安楽死への関心が高まっていることは間違いない。それは、高齢化が進む中国で安楽死の需要が急増するからだ。すでに、

「中国都市部では水面下で安楽死が横行している」(上海在住の医療関係者)

 との指摘もある。

 今後、この傾向は加速し、アジア諸国は安楽死希望者をこぞって受け入れるだろう。安楽死を望む富裕な中国人を受け入れることは、同時に経済的メリットも大きいからだ。

 日本も、このような動きとは無縁でいられない。

 現在、日本に必要なのは、終末期医療に関する冷静な議論だ。やがてアジアを席巻する「安楽死ツーリズム」に巻き込まれることなく、患者の自己決定権を尊重する医療体制を確立せねばならない。その際には、安楽死の議論は避けては通れない。

上昌広
特定非営利活動法人「医療ガバナンス研究所」理事長。
1968年生まれ、兵庫県出身。東京大学医学部医学科を卒業し、同大学大学院医学系研究科修了。東京都立駒込病院血液内科医員、虎の門病院血液科医員、国立がんセンター中央病院薬物療法部医員として造血器悪性腫瘍の臨床研究に従事し、2016年3月まで東京大学医科学研究所特任教授を務める。内科医(専門は血液・腫瘍内科学)。2005年10月より東京大学医科学研究所先端医療社会コミュニケーションシステムを主宰し、医療ガバナンスを研究している。医療関係者など約5万人が購読するメールマガジン「MRIC(医療ガバナンス学会)」の編集長も務め、積極的な情報発信を行っている。『復興は現場から動き出す 』(東洋経済新報社)、『日本の医療 崩壊を招いた構造と再生への提言 』(蕗書房 )、『日本の医療格差は9倍 医師不足の真実』(光文社新書)、『医療詐欺 「先端医療」と「新薬」は、まず疑うのが正しい』(講談社+α新書)、『病院は東京から破綻する 医師が「ゼロ」になる日 』(朝日新聞出版)など著書多数。

Foresight 2020年9月2日掲載

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