【特別連載】引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ(12)凶作の郷里、慟哭の戦場 引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ

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 東北新幹線の二戸駅(岩手県二戸市)から北上山地に分け入った「荷軽部」(にかるべ、久慈市山形町)という集落に、「バッタリー村」の看板がある。

 地元の木藤古(きとうご)徳一郎さん(89)が、昔ながらの山村の暮らしを伝える活動の場として、沢水で動く唐臼「バッタリー」の小屋や、わら細工、木工品の作業場などを開放し、遠来の来訪者たちと語り合う。筆者が山村文化の取材で知った木藤古さんは、1930(昭和5)年生まれ。1931~34年にわたる東北大凶作を記憶していた。

山村に残る大凶作の記憶

 父の徳太郎さん(故人)は樵(きこり)と冬の炭焼きをし、畑を開墾してヒエ・アワを作り、地鶏や牛を飼った。ヒエ・アワは一反当たり一斗(約15キロ)近くとれたが、家に余裕がなく、食べることなく売ったという。雑穀が、高冷地で田んぼのないこの地方の主な糧だった。

 木藤古さんが見せてくれた昔の山村食が、乾燥させたカブの葉と、硬く寒干しした小粒のジャガイモ。前者は冬に自家製みそ、ウサギの肉と「青菜汁」にし、後者はバッタリーで粉にし餅にした。山の厳しい冬を何年も生き延びるための保存食であり、救荒食であった。

「この地方は貧しかった。誰も小学校に持っていく弁当がなく、『ほど餅』を懐に入れてくる者はいい方だった。小麦粉の餅で、ない時はそば粉を使い、みそを付けて葉っぱにくるんで囲炉裏の熱い灰で焼いた。白いコメの弁当を食べてたのは先生だけだったが、『徳一郎、弁当ないのか』と分けてくれた。コメは大っぴらに食べられるものでなかった」

 腹を膨らませたものは山に豊富なドングリ。命の糧だった。

「ドングリを集めてバッタリーで皮をむき、灰汁抜きし、味がないので砂糖や黄な粉をまぶして食べさせられた。『シダミ(ドングリ)の木(注・ナラ)のない家に、娘を嫁にやるな』と、この地方では言われた。戦後は杉の造林のために邪魔者だと伐られたが、昔から山の恵みとして大事にしたものだ」

 山村に残ったドングリなどの食習慣は、東北の先祖である縄文人たちのブナ林文化圏の暮らしから連綿と続く。それが、寒冷な気候や厳しい冬、幾度もの飢饉から人々の命を守ってきた。木藤古さんは、

「それを貧しさとは思わなかった。自然と共生し、身の回りにないものは手作りした先人たちの知恵は、いまの人たちに伝承すべきもの。誇りに思っている」

 と語る。だが、昭和の大凶作はそんな山村の歴史の中でも過酷なものだった。

「ワラビの根も掘って食べたんだ(潰して澱粉を取り、餅にする)。いいワラビが出る所を調べて『蕨窪』と名付け、集落の皆には教えないで採ったものだ、と父から聞いた」

「もっとひどい時は、アカマツの皮をむき、中の軟らかいところまで食べた。囲炉裏でいぶして、足踏みのバッタリーで潰すと、何とか食べられた。だが、俺には食わせなかったそうだ。初めての子どもだから、大事にされたのかな」

 徳太郎さんは1937(昭和12)年に弘前の歩兵第三十一連隊に入営し、支那事変で中国へ出征。働き手の父を奪われて炭焼きの現金収入を絶たれ、「祖父は年を取っていたし、家族は毎日を生きるだけで精一杯だった」。

 本連載の主人公、三十一連隊の少尉だった対馬勝雄(青森出身、二・二六事件に参加し刑死)が満州事変に従軍した1931~34(昭和6~9)年当時とは時期がずれるが、率いた兵の多くは同じ岩手県出身の農民たち。その誰もが、大凶作への憂いを胸に郷里を後にした。

新聞が報じた農村の惨状

 勝雄ら混成第四旅団(第八師団の岩手、青森、秋田、山形の各連隊で構成)に関東州荘河県(現在の中国遼寧省大連市の一部)への出動命令が出され=第11回『「昭和維新」胎動の中へ』(2020年8月3日)参照=、匪賊を掃討していたさなかの1932(昭和7)年3月31日。

 敵の潰走が続いた戦況の余裕からか、勝雄は青森の実家の父嘉七さんあてに長い手紙を出し、そこで東北を覆う大凶作に触れた。

〈秋田新聞(注・秋田魁新報)では、食ふものがなくて他人の犬を盗んで食って引っ張られたとか、村中の犬猫がなくなったとか殺人的不景気ですね。豊年は豊年飢饉、凶年は凶年飢饉で百姓はどうにもなれません。こんな有様でゐる癖に、出動(征)者に対しては少しも後顧の虞(うれ)へなしなどなどいふお役人は気が知れません。

 先日も第五連隊のある兵隊は妹が死んでもそのしらせが来ずに新聞で葬式を出せないでゐるのが分かって泣いていたそうです。家ではしらせるにも参銭切手をかふ金がないのださうで、まずまず呆れたものであります〉

 勝雄の満州での日記(『邦刀遺文 二・二六事件 対馬勝雄記録集』所収)には、内地の新聞を読んでの記述が目立ち、全国紙や東北の『東奥日報』、『河北新報』からの引用もある。新聞各紙は空路、現地司令部などに届いていた。混成第四旅団を構成する第八師団(司令部・弘前)各連隊の地元で郷土兵たちの活躍がどう報じられているか、確認するのも勝雄ら上官の日課だった。

 それらの新聞が競って北東北の農村に記者を派遣し、天明天保の飢饉の伝承をほうふつとさせる見出しで窮状を伝えるようになったのは、前年の晩秋からだ。

『凶作地を行く 見るも惨めなこの生活 昨今の寒さに明日の糧もなき有様』(1931=昭和6=年11月21日の『東奥日報』)

『牛馬の様な食物で露命を繋ぐ 浦野舘村農民の困窮』(同年11月18日の『東京日日新聞』青森版)

『放棄すれば死を待つのみ 全村児童は飯を食べぬ』(同年11月20日の『青森報知新聞』)

『青森凶作地に餓死迫る この惨状から同胞を救へ』『二人の娘を身売り 病床に餓死を待つ老父』(同年12月20日の『時事新報』)

『凶作に悩む村から奪がれ行く娘たち 悪辣な人買ひ盛んに横行 彼等は遂に底知れぬ魔窟へ』(同年12月25日の『東京日日新聞』青森版)

 前年には世界(昭和)恐慌で、絹、コメなど農作物の値が暴落し、「獲るほど赤字」の借金地獄に呑まれた農村を、今度は大冷害が襲った。

 青森県では収穫高が半減。ヤマセ(冷涼な北東風)の吹く太平洋岸を中心に皆無作に近い地域が相次ぎ、記事にある浦野舘村では三分作以下が95%を占めた。

 県は食糧難に陥った農家に政府(備蓄)米を払い下げたが、これとて返済の負担を伴った。娘身売りなど衝撃的な報道は東北の農村救済の世論を喚起したが、過酷な現実の表面でしかない。『青森県農地改革史』(1952年)はこう記録する。

〈農家食料の窮迫状況にもかゝわらず、同年県内の農産物検査所で移出検査を受けた本県産米の数量は四十四万二千四百十六俵で同年収穫量の六十六万四千三百八十九俵の六七%に達していた。もしこれが実際に県外に移出されたとするならば最も極端な窮迫販売が行われたということであり、文字通りの飢餓販売であったといえるのである。しかもこれは地主の手を通じて売られる小作米であることは明らか〉

〈小作農はこの年の凶作減収にもかゝわらず例年地主が販売したのと同じだけの米を小作料として貢ぎ、自らの飯米をなくして政府払下米を借り受けて負債を背負いながら凶作の翌年を過ごしたのであった〉

慰問袋と兵士たち

 遠い満州で、勝雄は苦境の古里をどう見ていたのか。

 青森発の農村報道が相次いでいた1931(昭和6)年暮れの12月17日、チチハルからの父嘉七さんへの手紙につづった。

〈他地方の同情にたより、安価なる社会政策にたより、やれ歳末同情週間だの何だのといつまでも根本的救済の出来ぬことは残念であります。青森県民の名誉のため、また将来子孫のため今度こそ他力にすがらず何でもかまはんから自治体にてやりくりして根本的政策をなすべきでありませう。慰問品など(戦地に)送る必要なし。国民一般に余裕があっての慰問品なら喜ばしいのですが、そうでないのですから心苦しいものです〉

 慰問袋は、晒し木綿の布や手ぬぐいを縫った袋で、身の回り品、薬、菓子、缶詰、たばこなど多種多様な品が内地から戦地の兵士に届けられた。日露戦争時に広まり、満州事変の際にも全国紙が旗振り役となって半年で137万2742袋が海を渡ったという(森理恵日本女子大学教授の論考『戦争支援・被災地支援と「慰問袋」―近代日本における支援活動の発達―』参照)。

 勝雄の青年将校運動の同志で、第八師団傘下の青森・第五連隊付き中尉だった末松太平氏は、戦後の著書『私の昭和史』(みすず書房)で、凶作地出身の兵士たちと慰問袋の話を記している。末松中尉らは、満州の駐屯地で配られる慰問袋の中から保存の効く食料品や日用雑貨を蓄えさせ、その都度、生活困窮に悩む実家に軍事郵便で送らせたという。

 やはり満州で、同僚の中隊長が部下の兵士から見せられた手紙の話も『私の昭和史』にある。その差出人は父親らしく、

〈お前は必ず死んで帰れ。生きて帰ったら承知しない〉

 といった信じがたい文面であり、続けて、

〈おれはお前の死んだあとの国から下がる金がほしいのだ〉

 との意味のことが書いてあった。

〈この親の希望は、それから間もなくかなえられた。次ぎの討伐でこの兵は戦死したからである〉

 勝雄は父嘉七さん宛の便りで、

〈眞に恐れ入りますが、左の品物ありましたらお送りください。栄養志る古(しるこ)五十人分 株式会社栄養食料研究所 大てい食料品店にあるでせう〉(1934年1月16日)

 など、大人数の食べ物をたびたび注文し部下に配った。瓶詰のすじこやイカの塩辛、昆布、身欠きにしん。戦地ではご馳走だった。水産物加工を営む実家に頼みやすかったのだろう。棒給から毎月の仕送りとともに代金を送り続けた。

 勝雄の妹たまさんは不況の渦中の東京で洋裁の仕事をし、同居して働く姉タケさんと懸命に暮らした。薄給のため満州の兄に慰問袋を送る余裕はなく、せっせと手紙を出したという。勝雄は戦地からの便りに「がんばれ、がんばれ」と書いて寄こし、逆に20円(現在で約1万2000円)の激励金を送ってきた。

 たまさんは『邦刀遺文』で当時の兄をこう追想した。

〈兄は貧乏の中で育ったのに全くお金には無頓着で、第三十一連隊勤務中もよく(父の郷里、青森県田舎館村)の伯父たちから借金していた〉

〈満州事変の慰労金というか報償金というのか、とにかく少ない額ではなかったようですが、恐らく戦死した部下の遺族訪問、香典、同志間のカンパ等で大方つかってしまったのだろうと思います〉

高粱畑の終わりなき戦い

 満州の戦いは、「匪賊」と称され無数に割拠した武装集団や、旧軍閥、各層の結社、自衛団などが各地に組織した抗日義勇軍(満州国に反旗を翻す“偽勇軍”とも勝雄の手紙にある)、共産党系の遊撃隊などとの終わりない戦闘だった。

 敵は、夏は背丈4メートルにも伸びる高粱(コウリャン)畑に身を潜めて待ち伏せ攻撃を仕掛け、反撃すれば逃散し、新たな集団に姿を変えた。

 関東軍、満州国は治安法制を制定して抵抗を抑え討伐に躍起となったが、戦闘は都市から農村部まで広がり、地域的な勝利を重ねても治安回復には追い付かない(岩崎富久男明治大学名誉教授の論考『中国東北における抗日救亡運動』参照)。

 勝雄ら昭和の軍人が神話化した日露戦争の栄光ある大会戦はなく、敵は「五族協和」のスローガンを掲げた満州国の民衆の中にいる。勝雄は、倒した死体に「誓殺倭寇」の腕章を見た。

〈我第七中隊の警備区域たる小凌河(注・錦州を流れる)鉄道橋には毎夜の如く弾丸飛来し先月も軍曹以下十二名は三十分にわたり交戦して敵を撃退いたし候。本夜も亦暗中にて十数発交換し一番物騒に候〉

〈六月七月となればいよいよ高粱繁茂期に入るためどうしても敵軍に対しては五月中に徹底的な攻撃を加ふる必要あるべく私共も期待。現在は熱河との境には(張)学良の義勇軍なるもの多数あり〉=1932(昭和7)年4月30日、嘉七さんへの手紙=

〈当面の敵匪賊は高粱繁茂期迄積極的活動を中止せるが如く目下稍々平静に候 張学良は最近高粱繁茂期を期して満州国を擾乱すべく高粱の色に等しき青色の軍服まで準備しある由〉=同年6月28日、同=

〈何しろ眞暗闇の高粱畑の中で何が何やら少しも分らず全くの不規(則)戦でありました。この戦斗で中隊の喇叭(ラッパ)主一名が負傷し又私の乗馬は腹と足に弾丸を受け間もなく戦死しました〉=同年7月27日、同=

〈敵は山頂から射撃する一方、正面はぞろぞろ退却し、早きこと蚤の如し、砲撃のため逃脚たって殆ど戦斗にならず。乗馬隊には私が一部前方警戒をと命せし処、一寸私の見ていない間に皆前進して忽ち前面の高地を占領しあり、匪賊はボサ(注・草藪)や村にかくれて見えぬ様に相成候〉=同年10月2日、同=

 敵を追って熱河省境まで行軍した後の同年7月13日夜、勝雄は、

〈炎天焼くが如く山径崎嶇として人馬共に悩みました〉

 と、疲れを滲ませる手紙を嘉七さん宛につづった。

 酷暑で倒れる者、腹痛に苦しむ者もあり、露営は雨の中。夜襲への緊張の中、大隊長が天を仰いで弘前の岩木山神社を遥拝し、ついに雨が上がったという。

〈どうぞ岩木山神社の方に拝んで下さい。お礼であります〉

 と、日露戦争の戦場を知る嘉七さんに書いた。時に戦況図も手書きで入れ、暇を惜しんでは近況報告を続けた。明日の命はないとの覚悟からだったか。

 その手紙の中で勝雄は、秋田・第十七連隊の菅原新平軍曹の死を伝えた。

 同じ旅団の十七連隊は錦州郊外の大虎山に本部を置いていた。戦死は7月7日。

〈十数名足らずで二百五十名の敵と激戦した由であります。最後まで「進め進め」と号令をかけた由で、十一日の火葬の跡を弔ってきましたが痛恨至極でありました〉

 と、勝雄は万感の思いでつづった。

無二の同志の戦死

 菅原軍曹(戦没後、曹長)は、勝雄に国家改造運動の洗礼をした陸軍仙台教導学校(下士官の養成機関)元教官、大岸頼好中尉=第8回『昭和4年 運命の出会い』(2020年2月18日)参照=の教導学校時代の最初の教え子として薫陶を受け、勝雄とは同じ第八師団傘下の近隣の連隊にあって同志の絆を結んだ。

 満州事変へ出征前の1931(昭和6)年10月、陸軍急進派組織「桜会」による政党内閣打倒クーデター未遂事件「十月事件」の際も、上京し蹶起に加わろうとする勝雄と行動を共にした。

 秋田県金浦町(現にかほ市)に生まれ、旧制本荘中学で柔道に励んだという。生前を知る人は地元にいなかったが、「英雄だったと伝わる」と一族の方に聞いた。

 田園の中の集落墓地を訪ねると、てっぺんが神道の角兜巾形をした大きな塔の墓石に、満州出兵時の第十七連隊長だった佐藤文二少将の揮毫でこう刻まれている。

「昭和七年七月六日警乗ノ途次満州国北鎮護縣何営子ニ於テ抗日義勇軍ト遭遇シ力戦殊功ヲ立テ翌七日遂ニ其任ニ殪ル」

 前掲『私の昭和史』は、末松氏が当時、直に十七連隊で見聞したと思われる詳細な経緯を伝える。

 現場は、連隊の一分隊がいた北鎮(現北鎮市)まで食料や郵便物、慰問袋を毎日運ぶトラックの通り道。その日、菅原軍曹率いる軽機関銃一箇分隊の警乗した定期便が、途中の高粱畑で待ち伏せ攻撃に遭って包囲され全滅したという。そして勝雄についての記述が続く。

〈錦州にいた対馬中尉(当時は少尉)は、その追悼式に駈けつけ、菅原軍曹の遺骨の一部をもらいうけ、その一片を噛みくだいて嚥下した〉

「満州国の治安を守る」という大義名分に隠された戦争の現実を、勝雄は無二の同志喪失の痛みをもって知る。その日記や手紙には、苦闘苦戦の末に討伐した敵の死体の数とともに、手塩に掛けて教育し慈しんだ農村出の部下たちの死の記録も重ねられていく。

〈千葉善一一等兵戦死(出発間際匪賊ト交戦ス)車中悔状ヲ作ル〉(3月17日の日記)

〈夜半久慈上等兵火葬中ニシテ火焔炎々天ニ冲ス。逝ク者ハ皆カクモ果ナキカ〉(7月27日、同)

 1933(昭和8)年の年明けには、満州と中国の境の山海関(渤海湾に面した万里の長城東端の要塞)で、何柱国将軍の中国軍と関東軍守備隊の衝突があり、出動した混成第四旅団が初の大規模な交戦をした。山海関にこもる中国軍に艦砲射撃も行われ、砲撃戦の末、第三十一連隊、第五連隊が城内に突入し南門に日の丸を掲げた。この時、勝雄は乗馬小隊長。

〈此の日敵の退路を遮断の任務を持った対馬中尉の指揮する乗馬小隊は、西関外で強硬なる敵の猛火を浴びつゝ勇戦奮闘したのも大書すべき事実であった〉

『歩兵第三十一聯隊史』で賞された戦功は、部下3人の戦死を代償にした。いずれも岩手の遺族に勝雄は長文の手紙を書き、香典を送り、父嘉七さんにも弔辞を頼んだ。手紙は、

〈戦死に至らしめ小隊長たる小官はご遺族の皆々様に対し申訳の詞もなく皆々様の御心中を恐察してはたゞ断腸の思ひに御座候〉

 と、わが身を斬るような切々たる言葉に満ちる。

 機関銃分隊弾薬手だった阿部正男一等兵の兄には、

〈正男君は苦痛を忍んで勇を鼓し軍歌「戦友」を唄ひ「死んだら骨を頼むぞと」の章に至るやその悲壮なるに分隊長も亦泣いて和唱致し候〉

 と末期の様子を詳しく伝え、感謝した兄から嘉七さんにも礼状が届いた。

共ニ死スヘキ部下カ後顧ノ憂ヲ

 3年後の1936(昭和11)年3月1日。

 二・二六事件の鎮圧後、東京憲兵本部による尋問の中で、被告人となった勝雄は答えた。

〈殊ニ満州事変テハ自分カ指揮官トシテ自分ノ部下ノ後顧ノ憂ヲ感得シ又自分トシテモ国内ノ内憂ニ対スル心配カ大キクナリマシテ共ニ死スヘキ部下カ後顧ノ憂ヲ持チツヽ斃レ或ハ傷ツイタ事ニ依リ更ニ事変ヲ生キテ帰ッタナラ是等ノ部下ノ為ニ其後顧ノ憂ヲ取リ除イテヤロウト決シ……〉=『憲兵訊問調書』より(『邦刀遺文』所収)=

「後顧ノ憂」を取り除くために求めたものは何だったか。

 父嘉七さんの手紙にあった「根本的解決」とは何なのか。

 過酷な現実を知りながら、それでも満州の地で夢見ようとしたものが勝雄にはあった。幻と消えた時代の夢であっても、それを掘り起こしてみたい。(つづく)

寺島英弥
ローカルジャーナリスト、尚絅学院大客員教授。1957年福島県相馬市生れ。早稲田大学法学部卒。『河北新報』で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)などの連載に携わり、東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』『福島第1原発事故7年 避難指示解除後を生きる』(同)。3.11以降、被災地で「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を書き続けた。ホームページ「人と人をつなぐラボ」http://terashimahideya.com/

Foresight 2020年9月1日掲載

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