【戦後75年秘話】名機「紫電改」の墜落と列車事故の真実 少女を救っていた操縦士
明かされなかった真相
断末魔の日本帝国を象徴する「ガス欠墜落」。だが当時、日本の軍事物資がそこまでひっ迫していることが米国に知られてはまずい。軍は厳重な緘口令を敷く。三日後に列車事故を報じた当時の新聞には紫電改の墜落もパイロットの死亡も全く出ていない。
半世紀以上経って不可解な事故に関心を持ったのが上谷さんだった。上谷さんは北条鉄道に勤め、法華口駅の駅長もしていた。事故のことは鉄道仲間などから聞いていたが「誰が紫電改を操縦していたのだろう」と海上自衛隊を訪ねて旧海軍の名簿から1945年3月31日の殉職者を調べた。名簿に二十歳で亡くなった「五田(ごんだ)栄」の名があった。「上飛曹」で第1001海軍航空隊に属していた。上谷さんは「間違いない」と辿ってゆく。
「海軍ではまず、川西航空機から納入された紫電改を空技廠の第1001海軍航空隊の精鋭パイロットがテスト飛行するんです。五田さんは石川県、能登半島の出身と判明しましたが母一人、息子一人の母子家庭だったようで肉親はいなかった」
「列車で亡くなった人の遺族たちは遺体を引き取りに来ているから、薄々、紫電改が原因だったことはわかっていたはず。しかし厳しい軍の緘口令で他言できなかったのです」と上谷さん。結局、戦後も長くこの列車事故の真相は明らかにされていなかった。
4年ほど前、上谷さんは兵庫県に住む、当時の紫電改担当の元整備兵、西山勝氏からも聞き取りをした。
「紫電改のガソリンタンクは1100リットル入るが30分のテスト飛行分ぎりぎりしか入れてないこともわかった。目撃した西山さんの話では間違いなくガス欠でした。その証拠に落下した戦闘機は普通炎上するのに紫電改は全く炎上しなかったのです」
上谷氏は旧国鉄の重大事故記録も調べた。列車をけん引していたのは蒸気機関車C12-189。「木製の客車は木っ端みじんでしたが頑丈な機関車は修理され、すぐに使われました」。死んだ人より軍需物資や軍人の輸送が大事だった。戦後も長く使われ、解体されたが巨大な第一動輪が大阪市の鉄道博物館にあることもわかった。
上谷さんは「五田パイロットはガソリンが切れるのでテスト飛行を終わろうとしたのでしょう。優しい心が横切った少女を救い、自らは墜落死した。運悪く列車が遅れて大事故につながった。操縦が悪かったのでも機体や整備が悪かったのでもなく事故原因はガス欠です。あとほんの少しガソリンがあれば飛行機事故も列車事故もなかった。しかし軍の機密として村の人には緘口令が敷かれ、戦後も事実が長く葬られて来たのです」と語る。
網引駅には紫電改が絡む事故の経緯を説明した掲示板が立つ。「列車事故の真相」も少しずつ語られ、書かれるようになったのは上谷さんが関心を持った平成後だ。
鶉野飛行場跡の備蓄倉庫には紫電改の精巧な実物大模型が納められ第一、第三日曜日には屋外で公開される。平和教育に力を入れる同市が1500万円かけて茨城の会社に製作させた。飛行場跡には特攻で命を散らした姫路海軍航空隊基地の白鷺(はくろ)隊63人の慰霊碑がある。取材時に集まっていたのは他府県の教員たち。「新型コロナで京都や奈良の修学旅行をやめて、こういう所に体験学習に来させたいという学校が増えているんです」とは加西市の井上銀次郎主任。
紫電改は「局地型戦闘機」として米軍を迎え撃つ新兵器であり、南洋で米艦船に体当たりする特攻には使われなかった。五田パイロットはテスト中の事故で市民を巻き込んでしまった。同じ落命でも特攻機で散華した隊員のような「英霊」にはなれなかった。しかし五田パイロットは、燃料が切れかけていたのに少女を救うために舞い上がって犠牲になったのだ。石川県の母は一人息子の死にどんな想いだったのか。今回、事故の目撃者の元整備兵、西山氏は高齢で取材できなかった。
金属が枯渇し、鍋、釜から寺の鐘まで強制的に集めて兵器を作ったはいいが動かす燃料もない。哀れな窮状を必死に秘密にして国民を緘口令で縛った軍や為政者。
「燃料切れ墜落」は五田栄パイロットの肉親が既にいなかったとはいえ、緘口令が続いたわけでもない戦後の昭和時代も長く真相が明らかにされなかったことも不気味だ。我々が知る戦時下の真実などほんの一部でしかない。
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