【戦後75年秘話】名機「紫電改」の墜落と列車事故の真実 少女を救っていた操縦士

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 兵庫県加西市の第三セクター「北条鉄道」の網引駅から西へ300メートルほどの線路脇に列車からでは気づかないような一本の慰霊碑が建っている。高砂市の戦史研究家の上谷昭夫さん(81)ら「鶉(うずら)野平和祈念の碑苑保存会」の尽力で建立され、今年3月31日に除幕された。

 既に東京などが空襲に見舞われていた1945年3月31日午後4時頃だった。旧国鉄北条線(現北条鉄道)の網引駅近くを走っていた満員の北条駅発粟生駅行きの上り列車が突然、脱線転覆。2歳児を含む乗客ら11人が死亡、車掌が腕を切断するなど重軽傷者多数の惨事となった。

 この悲劇、不運が重なった。近くにある旧海軍の鶉野(うずらの)飛行場の上空を飛んでいた戦闘機「紫電改」が墜落した。地面すれすれで立て直そうとした際に機体の後輪がひっかけたレールが大きく歪んだのだ。直後に通過した列車は脱線、もんどりうって転覆して畑に転がり落ちた。紫電改も麦畑で大破、全身打撲でパイロットも死亡した。

 列車は少し前の法華口駅で切り離しに手間取り、定刻を3分遅れて発車した。遅れなければ墜落は列車の通過後だった。

 紫電改は戦後も1960年代、ちばてつやの漫画『紫電改のタカ』として少年マガジンに連載されたほどの名戦闘機だ(この頃、小学生だった筆者はフジテレビの『0戦はやと』に夢中になりこちらはあまり見なかったが、ともにかなり軍国主義的な内容だった)。

 第二次世界大戦末期、海軍が起死回生を賭した戦闘機。エンジン出力はゼロ戦の倍、米国のグラマン戦闘機並みの2000馬力あり上昇・下降能力や小回りの利く旋回力、防弾性などに優れていた。川西航空機(現新明和工業)が誕生させた「紫電」の改良型で約420機が製造された。

 1945年3月、松山沖で紫電と紫電改が米機グラマンの大軍を迎え撃ち58機撃墜したことが大々的に報じられ敗戦必至の国民を鼓舞した(米軍の発表では14機)。

 そんな時期の列車事故も警察・検察などは事情を知るため運転士らの責任が厳しく問われることはなかった。そして、列車事故を引き起こした紫電改の墜落原因は操縦ミスなのか、欠陥機体だったのか、整備不良なのか。こちらはうやむやどころか伏せられた。なぜか。

 この日、テスト飛行を終えた紫電改はすでに翼から車輪を出して着陸態勢に入っていた。その時だった。幼い女の子が滑走路を横切ったのだ。「危ない」。パイロットは操縦棹を引き、必死に機体を持ち上げた。だが数十メートル上がった直後、ぱたりとプロぺラが止まり降下してしまう。なんと原因は燃料切れだった。貴重なガソリンを実戦に残すため、テスト飛行ではぎりぎりの燃料しか積まない。燃料分のテストを終えたパイロットが着陸直前に少女をかわそうと必死で舞い上がった途端にガソリンが切れたのだ。ほんの少しの余裕すらなかった。

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