男を凌ぐ女性経営者たちの栄枯盛衰…時代を作った「強い女たち」列伝5
映画が斜陽になってポルノになったら、洋服は必要ないでしょ
「主人の母が、市川房枝さんと学校が一緒の仲よしで、そのせいか、主人はその頃にしては開けていて、女が仕事をすることに理解があったんです。彼は猛烈ビジネスマンで、私に仕事をさせておいた方が自由でいられると思ったのかもしれません。仕事始めるのも、やれば、という感じでした。
ビジネスとして展開していく上でも主人と一緒にやってきたって感じですよね。クリエイティブな部門は、とても重要です。常に新鮮なもの作ってなくちゃいけない。それと同時にお金がついて回るわけですよね。亭主に感謝しています」
映画の衣装デザインは、楽しい仕事だったようだ。
「石原裕次郎さんとか、映画の黄金時代でしたから。10年間に数百本くらいやったかしら。その頃は夢を与える存在でしたから、現実離れしていてもよかったし、とても面白かった。だけど映画が斜陽になってポルノになったら、洋服は必要ないでしょ。それで、一般の方の服を作るようになったんですが、行き詰まりましたね。西洋の文化とか伝統とか、そういったものを日本の生活にどう反映するのか、そこが難しかった」
本人にその気はなくても、周囲からは、やはり「勁い女」と見られがちだという。
「私は蝶々が好きなものですから、今では私自身を『マダム・バタフライ』と言われるのですが、鉄の蝶なんて言われたことがあって、その時はちょっと傷つきました。長い間、一つのことを追求してきたということで、他の方から見たら強い女なのかも。戦争に負けて、立ち直りかけていた時に、ファッションという国境のない仕事で外国に出て行ったわけですから、やはり頑張ってきたのかもしれませんね」
今は堂々とロールス・ロイスに乗って、大臣のところだろうと…
16歳で向島に美容室を出し、6人の子を育てながら「山野美容学院」を興し、遂には短大まで設立した山野愛子は、自叙伝にこう書いている。
〈昔の髪結いは看板も出せなかった。道具持ってお客さまのお宅へ伺ってね、それもお勝手口からですよ。表から入ろうとしたりすれば、書生が来て、「だめだ、だめだ、裏へ回れ」
って追い払うんだから。情けないと思ったことありますよ、私。それが今は堂々とロールス・ロイスに乗って、大臣のところだろうとどこだろうと行けるんですから〉
美容師になった愛子は、信用を得るために年齢を10歳も上と偽り、米国帰りの山野千枝子を目標に修業に励む。
〈山野千枝子先生は飛ぶ鳥を落す勢いでしてね。新聞には出るし、丸ビルで美容室を開いているという有名人。がぜん闘志が湧いてきたんです。で、評判の丸ビルの店というのを見に行くことにしました。東京駅で降りて、「丸ビルってどこですか」って聞いたら、「ここですよ」って。私、あの大きなビルを見上げて、ほんとにびっくりしちゃいました。こんなすごい美容院やってらっしゃるのかって。丸ビル全部がそうだと思っちゃったんですよ。そうして、「よーし、私もこれぐらいの学校を作らなきゃ。なに、負けるものか!」ってね。それが十九歳の時でした〉
とにかく、「稼ぐことっきゃ頭に」なく、婿養子を取ったのも、「夫はいらないけど、子供がほしかったから」だ。
8年間に6人の子を次々に産んだが、その間も仕事の手を休めようとはしなかった。
「子供が生まれるたびに、店を一軒ずつ増やす」という目標があったから、子育ては弟子任せ。未然な見習いには張り手を飛ばし、自身も夜通し美容の研究に没頭した。
〈ほんとに産みっぱなし。子供の世話やいている暇なんてないのよ。うちにいる時間が少ないし、帰ってきても夜中までいろんなやり方勉強してね。ダブルベッドの上にハンモックをつるしまして、それに子供を入れて泣くと足で揺すったりしてたんですから〉
天真爛漫な成功者である彼女は、最後にこう書いている。人生、もう思う通り。離陸しかかった飛行機を止めちゃったこともあるし、出かかった列車に止まってもらって乗ったこともある。なんでも、こうしようと思ったら、叶わないことはないのね〉
平成7年に86歳で他界するまで、山野のオバちゃんは元気いっぱいでした。
次ページ:雑誌にはノーヘルでバイクを走らせる少女の写真も載っている
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