最も感動的で、最も哀しい試合…「最後の早慶戦」(昭和18年)はこうして開かれた

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にっぽん野球事始――清水一利(29)

 現在、野球は日本でもっとも人気があり、もっとも盛んに行われているスポーツだ。上はプロ野球から下は小学生の草野球まで、さらには女子野球もあり、まさに老若男女、誰からも愛されているスポーツとなっている。それが野球である。21世紀のいま、野球こそが相撲や柔道に代わる日本の国技となったといっても決して過言ではないだろう。そんな野球は、いつどのようにして日本に伝わり、どんな道をたどっていまに至る進化を遂げてきたのだろうか? この連載では、明治以来からの“野球の進化”の歩みを紐解きながら、話を進めていく。今回は第29回目だ。

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1937(昭和12)年、日本と中国との間で戦争が始まって以来、戦時下の日本にあって東京六大学野球をめぐる状況も次第に悪化した。政府や軍部はサッカーやラグビーへの干渉は控えていたが、敵国アメリカ生まれの野球を「敵性スポーツ」として位置づけ、弾圧の姿勢を強く打ち出していった。

 1939(昭和14)年秋のリーグ戦を前に、文部省は平日の試合を禁止してリーグ戦の期間を短縮。土日に試合を集中することで全日程を約1カ月で修了するようにと通達してきた。そして、翌年からはリーグ戦のさらなる短縮が行われ、春はこれまで通り各校2回戦の総当たりだったが、秋は各校1回戦だけとなり、その後、試合は日曜、祭日だけに限られた。

 この時期、プロ野球もアウトが「退け」、ストライクが「よし1本」といったように全ての野球用語が英語から日本語に変更され、ユニフォームも軍服を思わせるデザインに変えられるなどさまざまな制約を受けたが、それでも何とか試合を続行していた。

 しかし、東京六大学野球連盟は解散を命じられ、1942(昭和17)年10月25日の早稲田・立教戦、法政・東大戦が戦前最後の試合となり、以後、試合をすることが禁じられてしまった。選手にとっても連盟にとっても、まさに暗黒の時代だったといってもいいだろう。

 戦局のさらなる悪化が顕著となった1943(昭和18)年10月、時の東条英機内閣は文科系学生の徴兵延期の停止を発表。これによって多くの学生が在学中にもかかわらず出征することとなった。いわゆる「学徒出陣」である。

 こうした中「覚悟はしていたが、このまま戦場に行くのはいやだ。早稲田と試合をしてから出征したい」との声が慶應の部員から湧き起こった。そして、その声は主将の阪井修一から野球部長の平井新を通じて塾長・小泉信三へと伝えられ、「出征する学生へのはなむけになる」と賛同した小泉は即座に実現に向けて協力することを約束した。

 そこで、小泉の意を受けた平井はさっそく早稲田に出向き、初代監督の飛田穂洲、部長の外岡茂十郎に趣旨を説明した。飛田も外岡も2つ返事で快諾したことはいうまでもない。これで開催に向けて話が大きく前進したと誰もが思っただろう。

 ところが、話は簡単ではなかった。開催に積極的な慶應に対して、肝心の早稲田の上層部が難色を示したのだ。早慶戦は毎回神宮に数万人の大観客を集める人気のカードだ。戸塚球場に大観衆が押し寄せて何かあれば大問題になる。

 早稲田は、おそらく軍部や文部省に気を遣ったのだろうが、総長の田中穂積は、「日本にとって大切なこの時期に野球の試合などをやっている場合ではない」といい、話に乗ってこようとはしなかった。

 結局、早稲田サイドは大学当局の許可を得ないまま、飛田の決断によって試合の開始に踏み切ったというように一般的に理解されている。

 しかし、冷静に考えてみると大学の許可なくして戸塚球場を使用することなどできるはずがない。つまり、真相は早稲田当局が試合の開催に際して正式には許可しないが、野球部が責任を待つという条件付きで戸塚球場の使用を認めた。いわば黙認したのだ。

 そして、早稲田当局は早慶野球部間の試合として行い、試合のことは告知しないということも条件に付け加えた。こうした条件をすべてのみ、学徒出陣早慶戦は10月16日午後1時から行われることがようやく決定した。

 ところが、ここで1つ予想外のことが起こった。試合のことが13日の早稲田大学新聞に掲載され、それを受けて翌日の全国紙各紙に載ったことで多くの人の知るところになってしまったのだ。これでは一般の観客が押し寄せ、収拾がつかなくなる恐れがある。とはいえ、今さら中止するわけにはいかない。

 そこで、大学当局は試合の開始時刻を早めることを野球部に命じた。観客が集まる前に試合を終えてしまえというのである。まさに苦肉の策である。こうして10月16日午前11時55分、慶應の先攻で試合は開始され、10対1の大差で早稲田が勝った。

 しかし、この試合だけは両校の選手にも関係者にも勝敗などどうでもいいことだった。試合から5日後の21日、豪雨の中で出陣学徒壮行会が挙行され、学生たちは戦地へと散っていった。この試合に出場した選手のうち早稲田の5人が二度と再び祖国に戻ってくることはなかった。

 長い早慶戦の歴史の中で最も感動的で、最も哀しい試合だった。

 長かった戦争が終わり、1946(昭和21)年春、東京六大学リーグが再開、早慶戦も4年ぶりに復活した。聖地神宮球場は前年から進駐軍に接収されていたため使えず、後楽園球場や上井草球場を使用。しかも、食料難だった時勢を考慮しての、各チーム1回戦だけで優勝を競うという変則的なシーズンだったが、久しぶりのリーグ戦とあって、球場には多くのファンが詰めかけ大いに盛り上がった。

 戦後初の早慶戦が行われたのは6月15日。後楽園球場だった。ここまで慶應は4戦全勝。もし早稲田に負けても同じ1敗の東大に勝っているため、すでに優勝は決まっている慶應に対し早稲田は立教、東大に敗れて2勝2敗。ここで慶應に勝っても優勝には届かない。それでも伝統の一戦だけにお互いに負けられない戦いだった。

 試合は早稲田・岡本忠之、慶応・大島信雄の両エースが先発した。序盤はともに譲らず0を並べたが、慶應は5回裏、フォアボールで出塁した加藤進をバントで2塁に進めると、ここで加藤が3盗、本盗と立て続けに盗塁を決めて先制。さらに6回に2点、7回に1点と小刻みに加点し、投げては大島が早稲田を3安打無得点に抑えて4対0で勝利した。

 ちなみに、この春のリーグ戦、明治と同率の3位に終わった早稲田は神宮球場で行われた同年秋のリーグ戦を10勝1敗で優勝し雪辱を果たす。早慶戦も1回戦、2回戦ともに2対0の完勝だった。

【つづく】

清水一利(しみず・かずとし)
1955年生まれ。フリーライター。PR会社勤務を経て、編集プロダクションを主宰。著書に「『東北のハワイ』は、なぜV字回復したのか スパリゾートハワイアンズの奇跡」(集英社新書)「SOS!500人を救え!~3.11石巻市立病院の5日間」(三一書房)など。

週刊新潮WEB取材班編集

2020年8月29日掲載

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