日韓併合110年…併合反対の伊藤博文を悪人と呼び、暗殺者を英雄視する韓国

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福澤諭吉は「韓国人は約束を反故にする」と書いた

 一方、韓国からなら、わずか一晩で日本に到達してしまう。伊藤はロシア軍が韓国に駐留する事態になることを恐れた。

 伊藤博文は、韓国からロシアなど諸外国を排除するため、韓国の外交を制限する第1次日韓協約を締結した。
 日露戦争で日本が勝利すると、日本が韓国の外交を直接指揮することを約した第二次日韓協約を締結して統監府を設置した。

 軍閥は韓国併合を主張したが、伊藤博文は韓国を保護国化して国力がつくまで支援をすると主張した。初代統監に就任した伊藤博文は韓国の国力が高まることを期待して、文盲率が94%に上っていた教育支援に力を注いだ。

 大韓帝国が成立した1897年、福澤諭吉は、韓国人は約束を反故にすると時事新報に書いている。
「かの国人に対して如何なる約束を結んでも、背信違約は彼等の持ち前で、意に介することはない。既に従来の国交でも経験したところだが、朝鮮人相手の約束は最初より無効のものと覚悟して、臨むほかはない」(『時事新報』明治三十年十月七日・意訳)という趣旨だ。

 1881年、訪日した金玉均ら開化派は福澤諭吉に支援を依頼した。福澤諭吉は、新聞の発行を支援することになり、83年に「漢城旬報」が発行された。しかし、翌84年12月、開化派が一掃され、金玉均は日本に亡命、「漢城旬報」の印刷所も焼き討ちにあって廃刊した。その交流で実感したのだろう。

 福澤諭吉は、西洋列強のアジア侵略に対し、日本が中国や朝鮮に力を貸して連帯して抵抗すべきだと考えていた。特に朝鮮を文明化し、清から独立させる必要性を説いた。朝鮮が清国やロシアの植民地になると日本の脅威となるからである。

 伊藤博文と福澤諭吉は同じような考えを持っていた。伊藤博文が福澤諭吉の説を読んだのか、あるいは論じる機会があったとしても不思議ではない。

 伊藤博文は韓国の国力を高める支援に取り組んだが、1909年10月26日、ロシアの蔵相ウラジミール・ココツエフと満州・朝鮮問題を話し合うために向かったハルビンで韓国の独立運動家の安重根に暗殺された。

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