「大規模爆発」「内閣総辞職」でレバノン逃亡中「ゴーン」日本引き渡しの可能性

国内 政治

  • ブックマーク

 レバノンの首都ベイルートの港湾地区で8月4日に起きた大規模な爆発事故は、同国に文字通り激震をもたらした。人的・物的に甚大な被害が出ただけでなく、責任を取る形で内閣が総辞職に追い込まれた。当局の対応に憤る市民の抗議デモも続き、情勢は混迷の一途をたどっている。

 世界をあっと言わせた昨年暮れの大脱走の末、レバノンにたどり着いた日産自動車の前会長、カルロス・ゴーン被告は、7カ月後にこんな大惨事に遭おうとは思ってもみなかったに違いない(注1)。

 日本政府はゴーン被告の身柄引き渡しをレバノン政府に要請しているが、レバノン側は「自国民は引き渡さない」として、拒否する姿勢を貫いている。

 レバノン国籍を持つゴーン被告は、不用意に国外に出ない限り、自由は約束されているのも同然と信じているようだ。

 しかし、経済危機下のレバノンでは、困窮する国民の不満がマグマのように溜まっている。そこへ爆発事故で多数の犠牲者を出すに至り、腐敗し、危機対応能力を欠く統治機構に対する怒りが沸点に達しようとしている。

 ゴーン被告が庇護を求めた有力者たちも、もはや安泰ではいられない。経済危機の深刻化やそれに追い打ちをかける爆発事故で、ゴーン被告の描いた「逃げ切り」シナリオに狂いが生じる可能性が出てきたのだ。

 ゴーン被告にとってレバノンは果たして安住の地となるのか、それとも日本への引き渡しという最悪の事態もあり得るのか、可能性を探ってみた。

狙いはレバノンでの無罪判決

 レバノン政府は、ゴーン被告を引き渡さない姿勢を明確にしている。日本との間で犯罪人引き渡し条約が結ばれていないからと説明されることがあるが、必ずしもそういうわけではない。

 引き渡し条約がなくても、ある国が他の国に被疑者・被告人の引き渡しを請求したり、他国からの請求に応じて引き渡したりするケースはある。

 立命館大学の越智萌准教授は、

「引き渡し条約は引き渡しの絶対条件ではない」

 と指摘する。

 ゴーン被告の引き渡しに際して最大のハードルとなるのは、「自国民不引き渡し原則」だ。

 レバノンはフランスやドイツなど欧州大陸諸国と同様に、他国から引き渡し請求を受けても、自国民であれば引き渡さないという立場を取っている。人権保護的な考え方が根拠にあるとされる。

 日本も同じだ。ペルー国内での殺人容疑などで国際手配されたアルベルト・フジモリ元大統領が2000年、日本に亡命したのを受け、ペルー当局は2003年、身柄の引き渡しを請求。しかし日本政府は、フジモリ元大統領が日本国籍を有しているため、応じなかった。

 サウジアラビアの『アラブニュース』は5月23日、ゴーン被告の「家族の知人」の話として、ゴーン被告の動静を次のように伝えている。

「ゴーンはレバノンでの裁判開始を強く求めています。早ければ早いほどいいです。もし彼がレバノンで起訴されたら、海外で同じ罪で裁くことはできなくなります(注2)。しかし、COVID-19の感染が国内外で広がっているため、起訴が遅々として進んでいません」(日本語版より引用)

 ゴーン被告は逃亡直後の1月9日、金融商品取引法違反、特別背任など、日本で問われている日産関連の容疑のほか、敵対状態にあるイスラエルに「入国した罪」などについて、レバノン検察の事情聴取を受けた。

 ゴーン被告は聴取で身の潔白を主張したもようだ。各国メディアの取材に対しても、一貫して無実を訴えている。

 前出の「家族の知人」によれば、ゴーン被告は、

「レバノンでの裁判を早めることに熱心で、そこで無実が証明されることを確信している」

 という。

 ゴーン被告としては、レバノン国内で裁判に臨み、特に日産絡みの容疑で無罪を勝ち取ることを狙っているのだ。

 元東京地検特捜部検事の郷原信郎弁護士は、ゴーン被告とのインタビューに基づく著書『「深層」カルロス・ゴーンとの対話-起訴されれば99%超が有罪になる国で』の中で、ゴーン被告の日産関連の刑事裁判が日本で開かれた場合の見通しについて、次のように述べている。

■金商法違反(「未払いの役員報酬」問題):「比較的早期に無罪判決に至っていたであろうと考えられる」

■特別背任(スワップ契約の付け替え):「無罪となる可能性が高い」

■特別背任(「サウジアラビア・ルート」と「オマーン・ルート」):「有罪になる可能性は極めて低い」(ただし、「裁判がすべて決着するまでには起訴から10年近くかかる可能性が高い」)

 要するに、いずれも無罪になる公算が大きいということだ(出国審査を受けないまま不法出国した出入国管理法違反容疑は除く)。

 ゴーン被告はレバノンで裁判に持ち込んだ場合でも、「勝算あり」と踏んでいるようだ。

国外は危険がいっぱい

 ゴーン被告をめぐっては、フランスの検察当局も、日産の資金を私的利益のために流用した疑いなどで捜査に着手している。捜査の指揮は、検察当局から、より広い権限を持つ予審判事に移譲された。

 7月20日付の仏紙『パリジャン』によると、ゴーン被告は、パリ近郊ナンテールの大審裁判所(日本の地方裁判所に相当)に属する予審判事から、事情聴取のため7月13日に出頭するよう要請された。

 これに対しゴーン被告は同紙とのインタビューで、フランスに行くには「第三国を通過」する必要があると指摘。「妨害やアクシデントなしに渡航できると誰も保証することはできない」と語り、出頭要請を拒否したことを明らかにした。

 レバノンのベイルート・ラフィク・ハリリ国際空港と、パリ・シャルル・ドゴール空港などフランスの空港の間には、直航便が就航している。所要時間は約4時間半だ。トランジットの必要はない。それなのになぜ、ゴーン被告はフランスへの渡航を渋ったのか。

 おそらく、搭乗機が故障や悪天候など何らかの理由で第三国の空港への着陸を余儀なくされるリスクを懸念したのだろう。搭乗機が何者かにハイジャックされ、予定外の国に強制着陸させられる恐れもある。

 ゴーン被告は現在、国際刑事警察機構(ICPO=インターポール)を通じて国際指名手配されている。レバノンから一歩でも出れば、身柄を拘束され、日本へ引き渡される可能性が一挙に高まる。

 ゴーン被告としては、搭乗機が第三国に着陸せざるを得なくなるリスクがたとえ1%以下であっても、リスクを完全に排除する選択肢を選んだとみられる。

 ゴーン被告は郷原弁護士に対し、昨年暮れの日本からの脱出について、「75%の成功率」とみていたことを明らかにしている(前掲書)。

 ということは、脱出に使ったプライベートジェットが関西空港を離陸する前、あるいは経由地のイスタンブールなどで、不法出国が発覚し、脱出計画が失敗するリスクを25%と想定していたことになる。

 それに比べれば、レバノン-フランス間で搭乗機の故障や悪天候、ましてやテロやハイジャックによってルート変更を余儀なくされる確率はかなり小さいはずだ。

 ゴーン被告にとっては、日本からの脱出が最初で最後の大きな賭けだったのである。その賭けに成功した今、それを台無しにするようなリスクは一切、取りたくないというのが偽らざる心情のようだ。

 ゴーン被告は前出の『パリジャン』に、

「たとえば(フランスの)予審判事がベイルートに来るのであれば、どんな質問にも答える用意がある」

 と語っている。

 レバノン国内にとどまる限り、世界中から「逃亡者」扱いされようと、当面、自由は保障される。

「以前入っていた刑務所(東京拘置所)に比べれば、今いる刑務所(レバノン)のほうがずっとましだ」(1月8日のベイルートでの記者会見)

 ゴーン被告はこう語っている。あえて国外に赴くことのメリットはまったくないのである。

IMF支援の見返り?

 事実上レバノン国外に一切出られないという制約の下、国内にとどまる限り、ゴーン被告の身の安全は約束されるのだろうか。

 現在66歳のゴーン被告が「余生」を送る地として選んだレバノンの首都ベイルート。かつて商業や金融で栄え、「中東のパリ」と呼ばれた。しかし、それは1975年の内戦ぼっ発までだった。15年におよんだ内戦でベイルートは破壊され、その名は過去のものとなった。

 さらに、レバノンでは数十年におよぶ放漫財政や汚職の蔓延を受けて経済は混乱。昨年10月から発生している大規模な反政府デモにより、社会情勢も不安定化している。

 財政は危機的な状況で、今年3月には、償還期限を迎えた外貨建て国債12億ドル(約1260億円)の支払いができず、レバノン史上初めてデフォルト(債務不履行)に陥った。外貨準備はほぼ底を突き、通貨レバノン・ポンドの相場は急落している。それだけに、

「レバノンが危機を脱出するには国際通貨基金(IMF)の支援に頼るしかない」(ジャン=イヴ・ルドリアン仏外相)

 という惨状だ。ただし、IMFの金融支援を受けるためには、徹底した経済改革を実施することが条件となる。

 しかし、18の宗派が混在し、各宗派に政治権力が配分されているレバノンの権力構造の下では、合意形成は至難の業だ。8月3日には、改革が遅々として進まないことを理由に、ナシフ・ヒッティ外相が辞任した。

「レバノンという主人に仕えるために政権に参加したが、この国には主人が何人もいて、相反する利益があることが分かった。国民を救うために結束しなければ、この船(レバノン)は全員を乗せたまま沈没することになるだろう」

 これはハッサン・ディアブ首相に宛てた辞表の一節だ。

 そんな中、『アラブニュース』は6月1日、レバノンで日産の法定代理人を務めるサケル・エルハケム弁護士が、次のように語ったと報じた。

「日本はIMFへ多額の拠出を行っている国の1つです。もし日本がレバノン(支援)を拒否すれば、IMFはレバノンに資金を提供しないでしょう。ただし、ゴーンが引き渡されれば別です」(日本語版より、一部改変)

 つまり、レバノンがゴーン被告を日本に差し出せば、IMF出資比率で米国に次ぐ第2位の日本がIMFの対レバノン支援に同意、支援は実現するだろうとの見立てだ。

 これについて茂木敏充外相は翌6月2日の記者会見で、

「レバノンがシリア難民の流入や経済危機、そして新型コロナウイルスの感染拡大に直面している現状や、中東地域全体の情勢に鑑みれば、レバノンを一層不安定化させるような状況を作り出すことは、現時点では避けるべきものだと考えております」

 と語った。

 この発言は、日本はゴーン被告引き渡しの見返りにIMF支援を支持するだろう、との観測を否定したものと受け止められた。

 レバノンの法律専門家も、ドバイの英語ニュースサイト『アルアラビヤ・イングリッシュ』に対し、

「ゴーンがレバノンにとどまっていることがIMFの金融支援に待ったをかけている要因であることを示すものは何もない」

 と語っている。

「国外追放」の選択肢も

 森雅子法相は米『ブルームバーグ』とのインタビューで(2月12日配信)、ゴーン被告の日本での裁判決着に向け、身柄引き渡しを「決してあきらめない」とし、外交交渉を含め「できることをすべてやっていく」意向を示した。

 今年4月にも開かれる予定だった初公判を前に取り逃がしたゴーン被告の引き渡しに向け、外交ルートを通じてレバノン側への働きかけを継続する考えを鮮明にしたものだ。

 前出の越智准教授は、

「日本とレバノンが今後、自国民の引き渡しを可能とする引き渡し条約を結べば、レバノン国民であっても日本に引き渡すことができるようになる可能性がある」

 と指摘する。

 その場合、引き渡し条約は手続き法であるため、たとえばゴーン被告のケースにも遡って適用され得るという。

 すべては、日本政府が外交交渉でレバノン政府を説得できるかにかかっている。

 レバノン政府としては、そこまでしてゴーン被告を引き渡すメリットがあるかがポイントになる。

 8月4日の大規模な爆発事故では、14日時点で少なくとも約160人が死亡、約30万人が家を失ったとされる。損害額は最大150億ドル(約1兆5800億円)に上るとの試算もある。

 経済危機下のレバノンにとって、まさに泣きっ面にハチだ。

 国際社会の支援が喉から手が出るほどほしいレバノンにとって、司法協力推進の名の下、日本と引き渡し条約を結ぶことは現実的な選択肢かもしれない。

 一方、越智准教授は、

「制度上引き渡しとは呼ばないものの、国外追放にして追放先を引き渡し請求国とする」

 との選択肢もあり得ると語る(ゴーン被告のような重国籍者で、かつ国内法で容認された場合)。

 実質的には引き渡しと変わりないが、レバノンとしては、「自国民不引き渡し原則」を逸脱したり、新条約を結んだりすることなく、日本政府の要請に応じることができる。国の面子が保たれることにもなろう。

不確定要因

 レバノンのある反政府デモ参加者は『ニューヨーク・タイムズ』(8月10日電子版)に対し、爆発事故の責任について、

「内閣総辞職だけでは不十分だ。大統領と国会議長も引きずり降ろす必要がある」

 と、怒りをぶちまけた。

 レバノンでは権力の均衡を保つため、大統領はキリスト教マロン派、首相はイスラム教スンニ派、国会議長はイスラム教シーア派から選出されるのが慣例となっている。

 現在のミシェル・アウン大統領は、同じキリスト教マロン派の信者であるゴーン被告と近い関係にある。

 実際にその大統領が退くようなことになれば、ゴーン被告としては、事実上、最大の後ろ盾を失うことになる。

 アウン大統領だけでなく、レバノンのエリート層には、立志伝中の成功者であるゴーン被告のシンパが多いとされる。

 しかし、貧困層が国民全体の3割超を占め、若年層の失業率も60%超に達すると言われるレバノンでは、今後、改革を求める国民の突き上げに遭い、政治体制が不安定化する可能性が大きい。

 国民の怨嗟が「上級国民」であるゴーン被告に直接向かう可能性は低いかもれないが、政権から庇護者が去っていけば、ゴーン被告の命運は暗転しないとも限らないのである。

 また、ゴーン被告が2008年、「敵国」イスラエルを訪れ、エフド・オルメルト首相(当時)らと会ったことを、多くのレバノン人はいまだに問題視している。

 オルメルト首相は2006年のレバノン侵攻を命じた「張本人」だ。イスラエル側は無差別攻撃を繰り返し、1000人を超えるレバノン市民が犠牲になった。

 その際、中東最強のイスラエル軍に激しく抵抗したレバノンのイスラム教シーア派組織ヒズボラの軍事部門は善戦。国内での人気が急上昇し、以来、政治勢力としても影響力を拡大した。2018年の総選挙ではヒズボラ系は大きく躍進し、128議席のうち過半数以上を獲得した。

 ヒズボラにとっては、ゴーン被告は「親イスラエル」の実業家にほかならず、当然、快く思っていない。

 ディアブ政権は、そのヒズボラや、ヒズボラと関係の深いキリスト教政党「自由愛国運動(FPM)」などの支援を受けて誕生した経緯がある。

 ディアブ首相が政権を返上した今、レバノン政局がどう動くのか。次期政権はIMFの支援を取り付け、経済危機を克服できるのか。ヒズボラの実質的な「政治支配」は終焉を迎えるのか、それとも影響力は今後も温存されるのか。

「モザイク国家」と呼ばれるレバノン。複雑に絡み合っているこうした不確定要因が定まらない限り、ゴーン被告の処遇も定まらない可能性がある。あるいは逆に、いずれかの要因がゴーン被告の命運を左右する可能性もある。

 ひょんなことで、ゴーン被告の日本への引き渡しが実現する可能性もゼロではないのである。

【注1】ブラジル紙『エスタド・デ・サンパウロ』は8月4日、ゴーン被告の妻キャロル容疑者(偽証容疑で逮捕状)の話として、爆発事故によりベイルート市内の夫妻の自宅が「破壊された」と報じた。この記事は日本をはじめ世界中で転電された。しかし、『AFP』の7日の報道によると、キャロル容疑者は爆発事故で動転していたため「破壊された」と口走ったようだが、実際の被害は窓ガラスが割れた程度で済んだもようだ。

【注2】一部の国は、外国判決の効力を認める「不再理主義」を取っている。その場合、いったん外国で無罪が確定すれば、同じ容疑について再び審理されることはない。ただし日本では、「外国において確定裁判を受けた者であっても、同一の行為について更に処罰することを妨げない」(刑法第5条)とされる。法制度上は、ゴーン被告がレバノンでの裁判で無罪を勝ち取っても、その後日本に引き渡された場合、同じ容疑で再び審理・処罰される可能性は否定できない。

有吉功一
ジャーナリスト。1960年埼玉県生まれ。大阪大卒。84年、東レ入社。88年に時事通信社に転職。94~98年ロンドン支局、2006~10年ブリュッセル支局勤務。主に国際経済ニュースをカバー。20年、時事通信社を定年退職。いちジャーナリストとして再出発。著書に『巨大通貨ユーロの野望』(時事通信社、共著)、『国際カルテル-狙われる日本企業』(同時代社)。

Foresight 2020年8月17日掲載

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。