甲子園を奪われ特攻隊に志願した投手「武智文雄」 “幻の完全試合”秘話(小林信也)

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「武智文雄って知ってる?」

 親しい編集者に訊かれたのは4年半前。

「プロ野球で2人目に完全試合をやった投手だ。しかもアンダースローだぜ」

 高校時代、アンダースローだった私に縁があるだろ、と言いたげに彼は笑った。

「会わせたい人がいるんだ」

 待ち合わせに現れた女性はバッグからユニフォームと硬球を出し、テーブルに置いた。

「父の記念品です。どこかに寄贈したいのですが」

 武智の長女・美保だった。2013年7月、武智は病気で他界した。許しを得てボールを手に取ると細い文字で、「完全試合達成 武智文雄 昭和三十年六月十九日」と記されていた。大映スターズ戦で完全試合を達成した時のウイニングボールだ。

「私は、生まれたときから親不孝な娘なのです」

 初対面ですぐ、美保はニコリともせずに言った。

 武智文雄は完全試合から2カ月後の8月30日、同じ大映相手に9回1死までひとりも走者を許さなかった。日本でもメジャーリーグでも完全試合を2度達成した投手はいない。武智がまた記録すれば球史に燦然と名を刻み、「1人目は巨人の藤本英雄だろ。2人目は知らないなあ」などと言われることはなかっただろう。

 9回1死、26人目の打者を迎えたとき、ベンチからマウンドに伝令が送られた。

「おい武智、無事に生まれたぞ、女の子だ!」

 それで打たれた、と父の友人から教えられた。

(自分が生まれたために、記録がダメになった……)

 美保はずっと心苦しく思っていた。しかし調べてみるとそれは作り話だった。美保は朝7時過ぎに生まれ、報せは試合前に届いていた。武智は長女誕生に触発され、再び気合のこもった投球を展開したのだろう。

特攻隊で九死に一生

「夏の甲子園」が中止になり、日本列島は「静かな夏」を過ごしている。高校3年の球児は、長い球史の中でも特異な青春に直面している。春も夏も甲子園を奪われた先輩といえば、第2次世界大戦で中止になった75年以上前に遡る。そのひとりが武智文雄だ。

 文雄は強豪・岐阜商に入学した。ところが、戦争の影が色濃く忍び寄り、1941年、文雄が1年の夏、地方大会が途中で中止になった。

「中止ってなぜですか!」

「野球、できるだろ」

 5年生の先輩たちは納得がいかず戸惑い、憤った。球児たち、そして国民は中等学校野球の中止によって、日本が開戦に向かっている現実を思い知らされた。

 5カ月後、真珠湾攻撃で戦争に突入する。翌春のセンバツも中止になった。練習も校外の施設で忍んでやるような状況だった。明治神宮体育大会は43年まで行われたが、岐阜商は東海地区決勝で敗れた。

(野球はもうできない)

 未来を奪われ、失望感にさいなまれた。父親には「男なら、お国のために奉公しろ。野球なんてもってのほかだ!」と繰り返し叱責された。苦悶の末、文雄は退学を決意し、予科練に志願する。16歳、中等学校3年の秋だった。

 入隊後、特攻隊員の訓練を受けた。「桜花」という飛行機で、敵の軍艦に突っ込む任務。出撃もした。が、荒天で突入を果たせず不時着する。九死に一生を得たまま終戦。郷里に戻ってしばらくは自暴自棄の暮らし。柳ケ瀬の盛り場で、わざとチンピラに肩をぶつけて喧嘩を売った。見かねて岐阜商の先輩が文雄を野球に誘った。戦後の復興とともに創部した企業チームだ。野球をやめて3年が経っていた。

 久々の野球は文雄を奮い立たせた。都市対抗に出場、2番手投手ながら連覇に貢献した。やがて新生・近鉄パールス(後の近鉄バファローズ)の創設メンバーとしてプロ野球に入る。同期には法大のエース関根潤三がいた。

野村克也も評価

 プロ入りに際して監督から、「上から投げろ」と命じられ、投法を変えたがうまくいかなかった。監督の反対を押し切り、アンダースローに戻した。

(下から投げると打者との距離が操りやすい。アンダースローは遊びのある投法。間合いを制しやすいんだ)

 武智にはそれが合っていた。2年目に15勝を挙げ、5年目の54年には26勝でパ・リーグの最多勝投手に輝いた。

 ある本で野村克也が「近鉄・楽天の投手歴代ベスト10」を挙げている。1位田中将大、2位野茂英雄、5位に武智の名がある。生前、野村に話を聞いた。

「2軍暮らしのころ、大阪球場のネット裏からよく見ていた。後ろから見るとふみさんの球はいつでも打てそうな球。ところが1軍で対戦すると思うような結果にならない。終わってみると4打数ノーヒット。ふみさんはそういう投手だった」

 一度は野球をあきらめ、「国のために死ぬ道」を受け入れた文雄は、戦争によって負った心の傷が、戦争が終わってもなお癒えない苦しみを、親しい友人に洩らしていた。戦争の傷は深い。文雄は終生、「二度と戦争をしてはいけない」と、平和の大切さを語り続けた。

 コロナ禍で甲子園を奪われた球児たちは次代に何を語り継ぐのか。それこそが重要な課題ではないか。

小林信也(こばやし・のぶや)
1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。「ナンバー」編集部等を経て独立。『長島茂雄 夢をかなえたホームラン』『高校野球が危ない!』など著書多数。

週刊新潮 2020年8月13・20日号掲載

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