夏の甲子園 「松村邦洋」が今も忘れない名勝負 1985年「PL学園VS宇部商」

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 新型コロナ感染拡大の影響で、今年の甲子園大会は春も夏も中止となった。その代わりとして先の8月10日から甲子園球場で“2020年甲子園高校野球交流試合”が、そして各県で独自の大会も行われている。しかしこれはあくまで“代替試合”であって、夏の甲子園大会ではないのだ。

 というワケで、夏の甲子園がなくなり寂しい思いをしている高校野球ファンのために、高校野球通の著名人に過去の夏の甲子園大会の試合からご自身が忘れられない名勝負1試合を選んでもらい、語り尽くしてもらうことに。題して『夏の高校野球 甲子園球場で私が感動したベストゲーム』。

 今回登場してくれたのは熱心な野球ファンとして知られるお笑いタレントの松村邦洋さん。プロ野球では熱烈な虎党=阪神タイガースファンとしてお馴染みの彼が、果たして高校野球で選んだ1試合とは? それは出身地・山口県を代表する名門校が繰り広げた激闘であった。

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――松村さんは、実はあのPL学園(大阪)で“KKコンビ”と呼ばれた桑田真澄と清原和博(ともに元・読売など)と同じ年なんですよね。当然選ばれた試合は……。

松村:僕が選んだのは、1985年の第67回大会での“PL学園対宇部商(山口)”戦です。決勝戦です。

――まさにKKコンビ3年夏の最後の大一番ですね。

松村:清原さん、問題起こしてそこから更生しようと頑張ってるじゃないですか。やっぱり同い年だし、元気になってもらいたいという思いもあって選んでみました。

――PLと松村さんの故郷・山口県の代表が、決勝戦で対戦したことも大きかったんでしょうか?

松村:清原さんはこの年の大会で、夏の甲子園1大会の個人最多本塁打記録5本という大記録を打ち立てるんです(注:現在の新記録は2017年第99回大会での広陵[広島]の中村奨成[広島東洋]の6本)。

 今、清原さんは苦しい時期なんでしょうけど、記録に罪はないというか。そしてその清原さんとね、競った選手が宇部商にいるんですよ。4本打った藤井進さんという選手です。自分としてはやっぱり地元のヒーローなんですね。

――藤井さんというと、確か2017年に……

松村:脳内出血で急逝しました。49歳でした。僕はその藤井さんの試合をね、やっぱり語り継ぎたいんですね。

――この年の宇部商は、大会前の評判はそんなに高くありませんでした。しかも初戦で東の横綱と言われた銚子商(千葉)と当たってしまって……でも、勝つんです。

松村:組み合わせが決まったときの新聞の論調は100%銚子商が勝つっていう感じでしたよ。そしたら試合の日が雨だったんですよ。雨が銚子商のピッチャーの調子を狂わせたというか。変化球が曲がらなかったんです。スピードもそんなになかったですし。

 そのせいなのか、宇部商は1番の佐藤(勝実)さんがいきなりホームラン打っちゃうんです。実はこの年の宇部商って、県大会ではそんなに打ってないんですけどね。

――結果的に8-3での快勝でした。

松村:関東のほうは、どのスポーツ新聞も“銚子商敗れる”っていう見出しなんですよ。でも、山口だけは特別で“宇部商勝つ!”でした(笑)。

――優勝候補の銚子商を倒したことで、完全に勢いづいて決勝戦まで勝ち上がっていった印象があります。

松村:本当にもう勢いでしたよね。県大会でも、ホームランもそんなに出てなかったハズなんですけどね。

――その勝ち上がり方もドラマティックでした。

松村:準々決勝、準決勝と土壇場での逆転勝ち逆転勝ちが続いたんです。もう震えが止まらなかったですよね。とうとう決勝まで来たかって。

宇部商すごいな

――ただ、その劇的な勝利の裏で不安材料がありました。大黒柱の左腕エース・田上昌徳投手の不調です。準々決勝、準決勝と2試合連続で早い回にKOされたことで、宇部商としては追いかける苦しい展開を強いられてしまいました。しかし、ここで“救世主”が現れます。背番号11の控えの右腕・古谷友宏投手です。

松村:田上さんが降板したあとを受けて2試合とも緊急登板したんですが、2試合ともナイスピッチングでね。

 実は僕はこの年の春の山口県大会でも、古谷投手が抑えて勝った試合を観てるんです。宇部商にとって春は調整の位置づけらしいのですが、この春の県大会はほぼ古谷投手が投げていて、準々決勝で柳井商に2-4で負けるんですが、田上さんだけじゃなくて古谷さんもいるっていうことが、実は宇部商すごいなって思っていたところでした。

――夏の県予選前に行われた会長旗争奪という県大会では、古谷さん1人で投げ抜いて優勝したと聞いています。

松村:当時、県内のほかの甲子園常連校の控えに、あんないい右投手がいるとは知らなかったっていうコメントを聞くたびに、なんとも言えない嬉しさがありましたね。

 結果的に甲子園での準々決勝と準決勝での好投が効いて、古谷さんは大事な決勝戦の先発に抜擢されるんです。

――一方、エースの田上さんは“5番・レフト”でのスタメンでした。こうして、この年の夏に県予選と甲子園を通じて初先発となった古谷さんが、最後の大舞台で宇部商のマウンドを守ることになったワケですが、この古谷投手を援護したい打線は準決勝まで好調でしたね。

松村:打線の中心にいたのが藤井進さんでした。準決勝までの5試合で計4ホームランを放っていて、その時点で“夏の甲子園1大会における個人の最多本塁打記録”を打ち立てていたんです。逆に準決勝が終わった時点でまだ清原さんはホームラン3本でしたからね。

 結果的には明智光秀の“三日天下”のように、夏の甲子園のホームラン記録としては“一日天下”に終わるんですけどね。でも、藤井さんの4ホーマーが一瞬でも清原さんに勝ってたっていうのがね、やっぱり自分としては嬉しかったですよ。

――実は同じこの85年の春の選抜でも、宇部商はPLと2回戦で対戦しています。そのときは2-6で負けているので、宇部商が不調の田上さんを先発させてくれば、PLが圧倒的に有利だろうと思っていました。

松村:ただ、その春の選抜の試合は終盤まで2-3だったんです。しかも新2年生になる正捕手の田処(新二)選手が、桑田さんからソロホームラン打ったんですよ。

 だから、今年の宇部商って、あのPLと互角に戦える戦力なんだと思って、少し嬉しかった記憶があります。

「ガンガン行け」

――春の選抜では2-6だったスコアが、この夏の決勝戦は互角の勝負に持ち込んでるんですよね。それはやっぱり、まず何よりも古谷投手の存在が大きかったのかなと。

松村:この試合、まず宇部商が2回表にノーヒットで先制するんですが、4回裏に清原さんに同点ソロを浴びてしまうんですよ。これで藤井さんに並んだんですね。

 で、5回裏にもPLに1点入れられて1-2とリードを許してしまうんですが、6回表に反撃するんです。

――藤井さんのバットが火を吹くんですよね。

松村:試合前から清原さんは、桑田さんに「とにかく藤井には絶対打たすなよ」って言ってたんです。

――でも当の桑田さんは、6回表のあの藤井さんの打席で、直球も変化球も外、外の外角一辺倒勝負だったんです。その外角に来たストレートにヤマを張っていたと。

松村:一塁にランナー置いている状況で三塁打を打ちましたからね。藤井さんって、パワーがあったから、フルスイングしたあのときの打球は、センターフェンス直撃のものすごくいい当たりの同点スリーベースになったんです。ただ、あれがホームランにならなかったっていうのがね……。

――このあと宇部商は、犠牲フライで3-2と再逆転に成功したんですが、あの藤井さんの打球がホームランになっていたら、また試合の展開が変わっていたと思います。

松村::そうでしょうね。先に藤井さんが5ホーマー打ってたっていうことにもなりますし。

――そして運命の6回裏が訪れます。

松村:古谷さんが打たれるんです。清原さんに2打席連続のソロホームランを。これで1大会5本塁打の新記録になって、藤井さんが抜き去られてしまいました。

――試合も再び3-3の振り出しに戻ってしまいました。

松村:まぁ、古谷さんは清原さんにホームラン2本打たれたワケですが、今思うと、清原さんのインコースにガンガン投げてるんですよね。それを持っていかれました。というのも、藤井さんは古谷さんに対して「ガンガン行け」って指示してたようなんです。

――試合はこのまま、両投手が踏ん張って3-3のまま膠着状態に入りました。延長戦突入の可能性が高くなったんです。でも、幕切れは突然でした。

 2アウトランナーなしからPLの2番・安本政弘選手の打った打球が、セカンド、ライト、センターの中間点にちょうどポトリと落ちるラッキーなヒットで出塁したことが、その始まりでした。

松村:テレビで観ていた自分としては、そのときは滑り込んだら取れてたなぁ~って思ったんですけど。あのときセカンドを守っていた岡村(憲二)さんとセンターの藤井さんは、恩田小学校・常盤中学時代からの同級生でした。だから中学時代からああいう微妙な打球は二人の間にある暗黙の了解で処理していたんです。

 後にご本人から聞いたのですが、微妙なフライは一方が声を出したらもう一人は追わない、というルールになっていたそうです。このときは甲子園での緊張もあって藤井さんが声を出したけど、岡村さんが突っ込めば間に合うかもしれない打球だったそうです。

――このラッキーなヒットで出塁した安本さんが盗塁を決めて2死二塁としたPLは、続く3番の松山秀明(元・オリックス)キャプテンが右中間へサヨナラヒットを放って、熱戦に決着がつきました。

松村:あの一打サヨナラの場面、清原さんは松山さんに「お前、決めてこい」って言ったらしいですね。

清原を敬遠していたら…

――3-4の惜しいサヨナラ負けで準優勝に終わりましたが、でも山口県民は大喜びだったんじゃないでしょうか。

松村:いやもうね、宇部市内中が大騒ぎ、大喜びして、ものすごいパニックになってました。翌日のニュースもね、まさに健闘を讃える内容一色ですごかったですよ。

――これはひょっとしたらなんですが、清原さんを全打席敬遠していたら、勝っていたかもしれませんね。

松村:当時チームを率いていた玉国(光男)さんはね、逃げない監督さんなんですよ。のちに玉国さん、ラジオでインタビュー受けてるんです。「敬遠っていう手もあったんじゃないですか?」っていう質問に、「高校球児に敬遠は絶対にさせたくない」って答えていたのが今でも強く印象に残ってるんです。

――正々堂々と勝負しようと。

松村:でも、あれ敬遠していたら、昭和33年の柳井高校以来、山口県2度目の夏の甲子園優勝だった……って思いますよね。山口県って、夏の甲子園での準優勝が多すぎるんですよ(注:これまでに6回の準優勝がある)。

――もし、松村さんがあのとき宇部商の監督だったら、どうしたらPLに勝てたと思いますか?

松村:う~ん、未来から来た僕が監督だったら、これは結果論なんですが、古谷先発で清原さんのときだけレフトに入れていた田上さんをワンポイントで投入しますね。だって古谷さんが打たれるっていう未来が見えてるから。で、投げ終わったら古谷さんと交替してレフトに戻っていくと。結果的にPLの4点のうちの2点が清原さんのソロホームランなので、清原さんだけ抑えればいいんですよ。よって清原さんのときだけ田上さんを投げさせるという戦術を取ります。これなら田上さんも最後気持ちよく終われるかな~っていうのもありますし。

――というと?

松村:あの決勝戦で田上さんはレフトを守っていたんですが、守りながら「古谷打たれればいいのに。そしたら俺が投げられるのに」って念じてたらしいです(笑)。あと、PLの校歌を唄ってたっていってましたよね(笑)。「打たれろ、古谷~~。俺が投げる。俺が投げる」って。これで最後の最後、宇部商が勝ったらね、もう俺の立場がないって言ったらしいですよ(笑)。

――でも、改めて思いますね、普通の公立校があのPL相手によくぞあそこまで善戦したなって。

松村:実は宇部商はこの前年夏も山口県予選の決勝まで勝ち進んでいて、柳井相手に9回表を終わって5-3でリードしていたんです。

 この年の宇部商って、池田(徳島)みたいに攻撃重視のチームだったんですが、でもその反面、守備面に不安があって、それが最後の9回裏の守りでモロに出ちゃったんですよ。僕も生で観戦してたんですけど、9回2アウトからのサードゴロエラーをきっかけに、柳井の猛反撃にあって、結局、大逆転のサヨナラ負けを食らっちゃったんです。その試合終了後のことですよ。当然、3年生全員がみんな泣きじゃくっているんですが、そしたら玉国監督が「お前ら、この先輩の涙をよく見ておけ!」って、当時の2年生に言うわけですよ。

 このときの悔しさがバネになって結成された新チームが最後、翌年の夏の甲子園決勝戦まで進んだんですから、主力選手みんなが一致団結して頑張った結果なんじゃないですかね。僕自身も、それはそれは感慨深いものがありました。PL戦を選んだのはそういう理由もあるんです。

――最後にこの試合の総括をお願いします。

松村:今ね、高校野球とか観てると、ほとんど選手が野球留学生ばかりなんですよね。少子化っていう問題もあると思うんですが、県内のコたちだけで野球やることがもう限界なのかなと。

 で、逆に県内の有望な中学生も“脱藩”して他県の強豪校に行っちゃって……。もうこの流れは止められないのは分かっているので、85年のこの宇部商の活躍っていうのは、古き良き時代の出来事だったのかなとは思いますよね。地元の中学野球で頑張ったコたちが、地元の宇部商に入って野球やってっていうね。

 あとは、やっぱり藤井進さんですよね。ホームラン記録は清原さんに抜かれたけど、この大会で14打点をマークして当時としては1大会の個人最多となる打点記録を作ったんです(注:現在の新記録は08年第90回大会で大阪桐蔭の萩原圭悟がマークした15打点)。

 高校野球史上最強のバッターと言われるあの清原和博でも、打点は藤井さんを抜けなかったワケです。その藤井進さんは亡くなってるけど、清原さんは今、生きてるんでね。生きているっていうことはありがたいことなので、清原さんにはしっかり頑張ってほしいですよね。

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松村邦洋(まつむら・くにひろ)
1967年8月11日生まれ。山口県出身のお笑い/ものまねタレント。野球・歴史の知識が豊富で多くの人に愛されるタレントとして、バラエティやラジオで活躍中。小・中学時代はプロ野球の千葉ロッテマリーンズなどで活躍した河本育之投手と同級生であった。現在出演中のレギュラー番組はニッポン放送『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』(月~金・11:30~13:00)の金曜パートナー、NHKラジオ第1『DJ日本史』(毎週日曜・16:05~16:55)、KBCラジオ『PAO~N』(月~金・13:00~16:00)の木曜パーソナリティ、山口放送ほか全国ネットの『松村::邦洋のOH-! 邦自慢』などがある。

インタビュー・文:上杉純也

週刊新潮WEB取材班編集

2020年8月16日掲載

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