「ベトナム独立戦」を支えた旧日本軍「秘密戦士」の生涯(中)「越南独立の為に戦うこととす」

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 敗戦によって、谷本喜久男少尉(1922~2001)の仏印での所属兵団は、ベトナム北部を所管した中国国民政府軍による武装解除を受けた。手記によると谷本氏は、将校の仕事として戦後処理に追われ、内地帰還を待ちわびつつも、一方でベトミン(ベトナム独立同盟)幹部と交流を深めたという。

 大戦中には自身がベトナム人工作員を指揮する立場だったため、その延長上に生じた交流だったと推測される。

「新越南人に生まれ替り……」

 戦後50年に当たる1995(平成7)年に谷本氏がまとめた『回顧録 ベトナム残留記』は、いかにも中野学校出身者らしく、戦後の現地での活動の一端を秘すため、関係者の名は全て仮名にしてあり、自身のことも「小林少尉」として記録している。

 しかし、谷本氏自身をはじめ、中野学校関係者らが1978年にまとめた校史『陸軍中野学校』や同校二俣分校1期生らが1981年にまとめた『俣一戦史』などで明らかにされている記録に照らせば、概ね類推可能なように書かれている。

 ちなみに『回顧録 ベトナム残留記』は、谷本氏の地元印刷会社への発注控えなども残されており、中野学校同期や恩人らに配布するため、計80部を作成したことがわかっている。

 回顧録などによると、谷本氏は敗戦後の混乱の中、ベトナム中部高原の保養地ダラットの日本軍警備隊員数人が、ベトミン軍の攻撃を受けて捕虜になったという事件の処理に当たった。

 その交渉でベトミン幹部レ・ズン氏と知り合い、同氏から、

「東亜を解放してくれた日本軍に感謝している。決して、降伏した日本軍を攻撃するものではない」

 と、懇望に近い表現で助力を請われたという。

 同氏への敬愛の情に揺れ動いた当時の心境を谷本氏は次のように表現している。

「(終戦の)詔勅中には『帝国ト共ニ東亜ノ解放ニ協力セル諸盟朋ニ対シ 遺憾ノ意ヲ表セザルヲ得ズ』とある。ここに於て、つらつら考えるに、中野教育の誠とは? 戦後処理の為には何を為すべきか? ここにおいて決断す。日本軍人、小林少尉【谷本氏のこと:筆者註】は『新越南人に生まれ替り、越南独立の為に戦うこととす』と、これは大きな賭だ。お先真暗、『身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ』かままよ‼」

ベトナム名「グエン・ドン・フン」

 谷本氏に関する取材を筆者に託した元陸軍少尉・小野田寛郎氏は、陸軍中野学校における教育の柱は「誠」だったと説明してくれた。

「謀略は誠なり」とも言われたが、スパイ・ゲリラ戦術という秘密戦士の特殊な工作活動の立脚点に、現実の行為とは逆に、理念においては相手を欺かないという精神がなければ、「救いがない」というのだ。

 谷本氏も、日本が敗れたとはいえ、フランスがベトナム再占領の野心を見せる中、大戦中に「アジアの解放」を訴えて現地人工作員を指揮してきた自身の言にそむくまいという気持ちが強かったのだろう。

 1946年2月上旬にベトミン工作員の手引きで所属部隊を離脱し、クァンガイ市内のバンガローで同様の旧日本軍離隊者らと合流。同年6月には、南ベトナム対仏抗戦委員会主席のグエン・ソン将軍を校長として新設された、ベトナム初の本格的な陸軍士官学校「クァンガイ陸軍中学」で教官に着任した。

 ここで近代戦術の何たるかを知らないベトミンの軍幹部やその候補生ら、部隊や党から推薦を受けた10代後半から20代前半の選りすぐりの男子約400人を対象として、軍隊としての戦闘基本動作や銃砲を扱う実技を伝授することになったのだ。

「新越南人に生まれ替り……」と記したように、谷本氏はこの際、ベトナム名「グエン・ドン・フン」を名乗るようになった。相当する漢字は「阮董雄」だとされているが、手記では自身のことを「小林少尉」と仮名表記した延長か、「阮東興」と表記している。

 ちなみに関係各国の資料などから、この当時、700~800人の元日本兵らが、ベトナムを中心に仏印に残留したと見られ、うち600人程度が独立戦争に参加したと推測されている。

ベトナム人民軍中核を育成

 新設のクァンガイ陸軍中学では生徒を4つの大隊に分け、それぞれ元日本軍将校が教官となり、日本軍下士官らを中心とする副教官、通訳、医務官らで手分けして受け持つ方法が採用された。

 中でも谷本氏は、中野学校で秘密戦士としての技術を仕込まれた軍歴に照らし、妥当と思われる「第一大隊」の指導教官に着任している。4人の邦人教官の中でも中心的存在であったことは想像に難くない。

 公益社団法人「ベトナム協会」(東京都港区六本木)の小川弘行常務理事によると、当時を知る関係者はすで世を去っているものの、協会誌『ベトナム』(1996年№1)に関係者への聞き取り結果が記録されている。

 その「クァンガイ陸軍中学校の4人の日本人教官」によれば、同中学設立に際し、ベトナム人民軍のホアン・ヴァン・タイ初代総参謀長は、校長となるグエン・ソン将軍に対し、こう訓示したという。

「我々の軍隊は大きくなりつつあるが、軍幹部はあまりにも足りない。ホー(チ・ミン)主席の意向は、我々が各地で軍政学校を設立し、短期訓練を行いながら、長期訓練ができる学校の設立準備をする必要がある(中略)生徒は国を愛し、健康で軍事知識、政治思想を理解し軍隊の指導者になれるような中学相当の学歴を持つ青年を募集する」

 同校での教育は、「気をつけ」の徒手訓練に始まり、匍匐訓練、銃器の扱い方から戦闘隊形、陣形の取り方など、軍隊における基本中の基本訓練から始まった。

「どんなに厳しい訓練もかまわない」とするベトミン側からの要望はただ1点、「日本式の鉄拳制裁だけはやめてほしい」ということのみだったという。

 記録にはないが、おそらく谷本氏が3カ月の速成教育で身につけた中野学校仕込みの諜報・遊撃戦術こそが、この急場の教育現場で活用されたものと推測できる。

 実際この当時のベトナムを取り巻く状況の変化は目まぐるしかった。

 1946(昭和21)年6月に設置された同中学は、同年9月には戦況の急変を受け、早くも大隊は解散状態となり、年内に生徒らは繰り上げ卒業した。一部は南部軍に配属され、主力は北上転進。卒業生はその後、実戦に投入され、現場で学びながらベトナム人民軍中核となり、長い独立・統一戦を耐え抜いた。

 陸軍中学の解散後、日本人教官らもベトミンの指示に従って各地に移動した。

 ベトナム人民軍総司令官だった高名なヴォー・グェン・ザップ将軍と行動をともにしたり、別の地区で軍事教練に携わったりしている。

 このうち谷本氏は当初、クァンガイ近郊に疎開し、引き続き軍幹部の教育訓練を続けるなどしたが、1950年からは北部戦線への参加を決意した。以後、54年9月まで山岳遊撃戦線に身を投じ、ベトナム再占領を企てるフランス軍を相手に死闘を繰り広げることになった。

司馬遼太郎が取材した元残留日本兵

 余談だが、残留日本兵の戦闘時の号令は、日本語であったという。

 作家、司馬遼太郎がベトナム訪問記録をまとめた『人間の集団について』(中公文庫、初版1974年)の中には、米軍が撤退し、日本と外交関係を樹立(この当時はベトナム民主共和国)した1973年当時、サイゴンで日本の商社の支店に勤務していた元残留日本兵らに対する司馬氏の取材結果が収録されている。

 エピソードの1つは、第1次インドシナ戦争で残留日本兵の指揮官が少数のベトミン兵を率いて払暁、築城化されたフランス軍1個大隊の兵舎を急襲した際、大刀をかざして「突撃にィ」「前へ」等の号令をかけたものの、戦闘に不慣れなベトミン兵は突撃をためらった。にもかかわらず、フランス軍側は、すでに解体されたはずの、しかしよく知っている日本軍式号令に混乱したのか、応戦せずに逃走した、という。

 証言者の元残留日本兵は、ベトナム人の日本人に対する好意感情の土台として、この例をあげている。

 また、長年フランスの権力におびえ続けたベトナム人にとって、同様の体格、容貌の日本人が「明号作戦」で、兵力劣勢にもかかわらず、一夜にして駐留フランス軍兵舎からフランス国旗を降ろさせたことの影響も大きかった、とも指摘している。

ディエンビエンフーの戦いへの関与

 実際に抗仏戦の現場に立った谷本氏は、私家版回顧録に、フランス軍相手に展開した熾烈な遊撃戦の模様を次のように記録した。

「五四年九月迄の三年半は、部隊と共に東南に西南に山岳遊撃戦線に参加。其の間、或は安死山(標高二千米級)を越え、或は山中で仏軍の爆撃を受け、岡一つへだてていたおかげで命拾いをし、爆撃により内臓露出した悲惨な戦死者のごろごろした状況に目をおおい、或は、部隊とは離れ離れ単身戦場を動き廻り(此の間仏飛行機から逃れつつ)友軍を捜して帰りついたこと。或は、一晩中敵前にはりついて払暁戦により仏軍陣地を占領し、食糧其他の物資にありついたこと、等々。今だに忘れ得ない遊撃戦の思い出もつきず」

 フランスのベトナム撤退を決定的にした「第1次インドシナ戦争の関ヶ原」とも言うべき「ディエンビエンフーの戦い」(1954年)への関与については、回顧録では敢えて具体的証言を避けている節も垣間見られる。

 ベトミン中枢にベトナム名を名乗る日本人がいることを、当時ベトナムに軍事顧問団も送った中国人民解放軍が嫌ったためとも言われる。

 あるいはこの当時すでに米国はインドシナの共産化を危惧してフランス軍を支援していたが、その米国と同盟関係を結んだ祖国日本の立場を気遣ったのかもしれない。

 ただし、1991年にまとめられた谷本氏の母校、鳥取県師範学校の本科第一部第52回生「大村学級50年」記念文集で谷本氏は、この当時、対フランス軍防衛陣地作戦に奔走したことに触れており、書き記したもの全体を俯瞰すれば、同作戦への関与は判読できる。

終止符が打たれた植民地支配

 ディエンビエンフーとは、ベトナム北西部の、峻嶮な山に囲まれた盆地で、旧日本軍の滑走路が残されていた場所だ。フランス軍は1953年11月、ベトナムへの中国からの物資補給路などを絶ち、一気にベトミンを殲滅させることを企図して、同地に攻め入り大要塞を築いた。

 戦闘当初のフランス側の兵力は1万3000人とされ、対するベトミン側は約9万。

 ベトミンは日本軍が残した小型銃砲をはじめ、ソ連、中国からも大量の武器援助を得ており、事前に人海戦術で周囲の山頂に火砲をひそかに配置。ホー・チ・ミン主席が1954年3月に攻撃命令を発するや、これらが一斉に砲火を浴びせかけた。

 フランス軍側の記録によると、旧日本軍さながらの捨て身の肉弾突撃、大刀を振りかざした白兵戦攻撃などによって、フランス軍は防戦一方となり、その後は補給もままならず雨季の塹壕に閉じ込められることに。

 3月13日から5月7日まで続いたディエンビエンフーでの戦闘は、死闘というほかなく、フランス軍側の戦死者約1500人、負傷者4000人、捕虜1万人といい、捕虜からも死者が多く出た。

 対するベトミン側の損害はさらに大きく、戦死者約8000人、負傷者1万5000人という。

 アジアの植民地が、宗主国に正面から戦いを挑んで勝利した最初の戦闘で、これによってフランスによるベトナムの植民地支配には終止符が打たれたが、以後は代わってアジアの共産化を危惧する米国相手に泥沼の戦いが続くことになった。(つづく)

吉村剛史
日本大学法学部卒後、1990年、産経新聞社に入社。阪神支局を初任地に、大阪、東京両本社社会部で事件、行政、皇室などを担当。夕刊フジ関西総局担当時の2006年~2007年、台湾大学に社費留学。2011年、東京本社外信部を経て同年6月から、2014年5月まで台北支局長。帰任後、日本大学大学院総合社会情報研究科博士課程前期を修了。修士(国際情報)。岡山支局長、広島総局長などの担当を経て2019年末に退職。以後フリーに。
主に在日外国人社会や中国、台湾問題などをテーマに取材。共著に『命の重さ取材して―神戸・児童連続殺傷事件』(産経新聞ニュースサービス、1997)『教育再興』(産経新聞出版、1999)、『ブランドはなぜ墜ちたか―雪印、そごう、三菱自動車事件の深層』(角川文庫、2002)、学術論文に『新聞報道から読み解く馬英九政権の対日、両岸政策-日台民間漁協取り決めを中心に』(2016)など。
日本記者クラブ個人会員。YouTube番組『デイブ&チバレイの新・日本記』『巨漢記者デイブのアジア風雲録』(Hyper J Channel・文化人放送局、2019~)でMCを担当。

Foresight 2020年8月15日掲載

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