早慶戦で球史に残る大乱闘、逮捕者も出た“水原リンゴ事件”(昭和8年)とは何だったのか?

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 そもそもその日の試合は序盤から激しい点の取り合いとなり、審判の判定を巡ってのトラブルが重なっていた。早稲田1点リードの2回には早稲田の投手・悳宗弘の投球がいったんはストライクと判定されるも慶應側の抗議によってデッドボールとされ、それを足がかりに慶應が4点を入れて逆転。

 さらに早稲田が再逆転し、2点リードで迎えた8回には慶應・岡泰蔵の2塁盗塁に対するセーフの判定が早稲田のアピールでアウトになると3塁コーチャーボックスにいた水原が2塁塁審の元に駆け寄り猛抗議。判定は覆らなかったが、二転三転のシーソーゲームに両校の応援団の雰囲気はいやがうえにもヒートアップしていたのだ。そんな状況での水原の行為だったが、早稲田が8回までのリードを守り、すんなりと勝っていればおそらく何事もなく終わっていただろう。

 ところが、最終回に慶應が2点を奪い逆転サヨナラ勝ちをしたから大変だ。収まりのつかなくなった早稲田の学生がグラウンドに乱入し、危険を感じた水原をはじめとする慶應の選手たちが一目散に逃げると、今度はサヨナラ勝ちで盛り上がる慶應の応援席へとなだれ込んでいき、あろうことか慶應の応援団長が手にしていた、林毅陸塾長から授与された長さ約60センチの指揮棒を奪い去るという狼藉を働いたのだ。

 騒ぎはグラウンド内だけでは収まらなかった。勝利を祝って銀座に繰り出していた慶大生を早大生が襲い、銀座の街のあちこちで両校入り乱れての騒動が起こってしまったのだ。特に新橋付近では早慶合わせて100人以上がもみ合い、興奮した学生が交番を破壊するなど事態はますますエスカレート。警官の制止に応じなかった10数名の学生が逮捕されて騒ぎはようやく収束したものの、翌日の新聞各紙が社会面で大きく取り上げるなど世間を大いに騒がせた。

 この前代未聞の事態に慌てたのは両校の関係者だ。とりわけ慶應側は態度を硬化、早稲田の東京六大学連盟からの除名を求める声明を発表した。

 これに対し早稲田側もすぐに反論。そもそも騒動のきっかけは慶應側にあり、審判の判定に激しく抗議する態度は学生としてあるまじきものだとし、あくまでも水原の謝罪を要求したが、慶應は断固これを拒否。両者は歩み寄ることはなく、結論は連盟に委ねられることとなった。

 ところが、連盟でも意見がまとまらず、ついには再度の早慶戦中止もしくは早稲田の除名という最悪の事態を迎えつつあったが、事件から1カ月以上が経過した時、早大野球部の安部磯雄が自らの非を潔く認め、慶應及び連盟に謝罪することで事態はようやく鎮まった。

 後年、水原は1983(昭和58年)に出版した自著「華麗なる波乱 わが野球一筋の歩み」の中でこの事件に触れ、

「守備をしている姿勢のまま手を逆に壁のほうへ投げ捨てた」

 と書き残している。つまり、バックトスのような形でリンゴを投げただけだというのである。とすれば、リンゴが早大生の顔に当たるどころか、おそらくスタンドに届くこともないはずだ。さらに、水原が投げたのはリンゴではなく梨だったという話もあるが、この事件に関して生前の水原自身、多くを語らなかったこともあり、真相は今に至るも薮の中といっていいだろう。

【つづく】

清水一利(しみず・かずとし)
1955年生まれ。フリーライター。PR会社勤務を経て、編集プロダクションを主宰。著書に「『東北のハワイ』は、なぜV字回復したのか スパリゾートハワイアンズの奇跡」(集英社新書)「SOS!500人を救え!~3.11石巻市立病院の5日間」(三一書房)など。

週刊新潮WEB取材班編集

2020年8月15日掲載

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