【訃報】渡哲也、病と闘い続けた人生に終幕 「石原プロ解散」発表の直後に…

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渡が裕次郎に、全財産の180万円を「使ってください」と差し出した

 俳優の渡哲也が10日、肺炎で死去した。石原プロと病院関係者が認めた。今日密葬を済ませた。享年78。日活デビュー後、石原裕次郎を慕って、経営が火の車だった石原プロに参加し、ボスへの献身を重ね、見事に立て直してみせた。2度の大手術を受けた以外にもさまざまな病と闘う中で、人の痛みについてしばしば口にするようになっていったという。男の美学で売ってきたが、自分の弱みもよく知る、78年の人生だった。

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 1941年、島根県生まれ。小学1年生からは実家のある兵庫・淡路島で育った。3歳下で3年前に亡くなった俳優・渡瀬恒彦と同様、三田学園中・高に通った。

 渡瀬と同級生だった兵庫県議の野間洋志氏は、

「3学年上にお兄さんの渡哲也さんがいて、2人とも図抜けて男前やから、運動会やらイベントがあると、地元だけやなく離れたところから追っかけファンみたいな女子グループが来ていましたよ」

 と明かしている。

 上京し、青山学院大学経済学部に在学中に、日活撮影所をひょんなことから訪問したところをスカウトされ、1964年に入社。翌65年にエースのジョーこと宍戸錠とW主演でデビューを飾った。66年には鈴木清順監督「東京流れ者」に主演。脚本を執筆した川内康範が作詞した主題歌「東京流れ者」で美声を披露している。

 路線の違いから71年に日活を退社後、複数のオファーを振り切って向かったのは、敬慕していた石原裕次郎率いる石原プロ。当時の石原プロは映画の失敗で大借金を背負っていた。まだ日活の所属だった渡が裕次郎に、全財産の180万円を「使ってください」と差し出したのは知る人ぞ知るエピソードだ。

膠原病、直腸がん、急性心筋梗塞…

 松竹、東宝の映画、テレビドラマで人気を博していた1974年、NHK大河「勝海舟」に主演中、高熱が続き降板。後に難病である膠原病と診断されるのだが、急性肝機能不全などを起こし、入院は9カ月にも及んだ。

 その後には東映入りもうわさされ、「仁義なき戦い」で菅原文太が演じた暴力団員・広能昌三役が予定されていたという証言も残されているものの、そこでも病が邪魔をしたという。一方で、渡はテレビドラマへ本格的に進出、「大都会」「西部警察」が立て続けに大ヒットし、シリーズ化される。

 1987年に裕次郎が肝細胞がんのため、52歳で死去。渡が2代目社長として石原プロを継承した。その4年後に渡を襲ったのが直腸がん。裕次郎の妻・まき子さんは「渡は完全に治るので告知した」と語っているが、渡自身は、ストーマ(人工肛門)をつける手術をそう簡単には受け入れがたく、涙が止まらなかったと手記で明かしている。

 30年も前の話で、今とは違ってがんは死の病とされていた。加えて、「男の美学」で売ってきたという自負心も人一倍あったのだろう。

 手術後は、1日1度、ストーマの洗浄を行い、医師からNG宣告されていた肉、ビール、たばこはみんなやっているとも語っていた。

 2015年には急性心筋梗塞が襲うも、大手術の末に復帰。その他、肺気腫や喘息といった持病もあり、ここ数年は状態が悪い日の方が増えて行く日々だった。

舘ひろしが明かす「秘話」

 弟分として可愛がり、渡がいなければ俳優としての活躍はなかったかもしれない舘ひろしは昨年、週刊新潮の取材にこんな風に語っていた。

「渡哲也はいつも『人の痛み』について話していましたね。(ラグビーW杯の)日本vsロシア戦が終わった後も渡と話して……“ラグビーはいいなあ”なんて言ってましたよ……。“ルールはよく分からんけどいいな、男のスポーツだな”って……。確かにそうですよね……。渡が気に入ってたのは誰もレフェリーに対して文句言わないってところですね」

 また、危機管理の専門家で株式会社リスク・ヘッジの田中優介代表によれば、

「危機管理の関係者の間で『伝説』と語り継がれているのが、03年の石原プロモーションによる謝罪です。ドラマ『西部警察2003』の撮影中に、出演俳優がハンドル操作を誤って、見学していたファンの列に突っ込んでしまった。渡哲也社長(当時)は、負傷したファンの入院先に駆けつけ土下座して謝罪。その後の会見で渡社長は「大切なファンを傷つけてしまった以上、私たちにドラマを作る資格はありません」と制作中止を発表しました。言い訳を一切せず、心に響く謝罪を重ね、謝罪の仕方も見事という他ありません」

 そしてつい最近報じられた「石原プロの解散」。裕次郎が生前、「オレが死んだら石原プロは畳め」と指示をしていたものの、整理されないまま今日に至っていた“課題”だったわけだが、これについても、関係者によると、

「渡さんにとって、もう何年越しかというくらいの懸案でした。オレが目の黒いうちに何とかしたいと言ってきましたから。それが解消できたことでホッとしたというのはあるのかもしれません」

週刊新潮WEB取材班

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