コロナ禍に屈せぬ南三陸町「震災語り部」ホテル(下)津波と命を「伝承する」使命

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「おかみ会の会員のホテル・旅館も、創業100年どころか200年、400年の間、地元に根付いてさまざまに貢献してきたと思います。私たちの『ホテル観洋』は1972(昭和47)年に開業して半世紀余り。今回のコロナ禍の状況でも、1日もホテルの灯を消しませんでした」

 女将の阿部憲子さん(58)はそう語る。

 それは「地域のライフライン」の役目とともに、もう1つ理由がある。

「被災地のホテルとして、この地に残った者として使命がある」

 と阿部さんは言う。「語り部バス」がその象徴だ。

「避難所を開いていた時から取り組みは始まりました。最初は、街並みがなくなった志津川を『誰か、道案内をしてほしい』と依頼され、営業マンが車を出して『津波の前は、こちらに〇〇があって、あちらに〇〇があった』と案内しました。それがボランティアや視察の団体、個人の客からも求められるようになって、『失われた町の記憶を伝えるのも大事な仕事。これが語り部なのか』と気付き、毎日バスを運行するようになりました」

 コロナ禍より9年前の震災でも、人の流れ、交流が止まってしまう危機があった。だが、「語り部バス」が多くのリピーターを町に招き寄せた。

「ボランティア活動で泊まり、バスから被災した町を見つめた人が、次は部下や家族に話して連れてきてくれ、1人の体験者の持ち帰った種が広がった。来るたびにバスに乗り、8回、9回、10回という人も。町のその後の姿を定点観測してきた人、語り部を務める社員に愛着を持って会いに来る人もいます」

 震災直前の2011年2月に536世帯、1万7666人が暮らした南三陸町の人口は、今年6月末現在で4475世帯、1万2449人に激減。ホテルに泊まり、「語り部バス」に乗った人々は、かつての志津川の町中心部に生まれた「南三陸さんさん商店街」などを訪れて食事や買い物をし、毎月恒例の「福興市」や「牡蠣フェスティバル」など季節のイベントを楽しんできた。

「震災で定住人口が減った町にあって、被災体験を伝える活動は、私たちを日本中の人とつなぎ、町を交流の場にし、町の生業や経済を生かす」

 と阿部さん。「語り部バス」に始まったホテルの活動は、さらに全国から700余りの中学、高校や大学の教育旅行を集わせた。

 南三陸町に震災後、初めて教育旅行の一行が訪れたのは2012年5月上旬。東京の私立高校3年生ら約400人が、がれきの残る被災地を巡って住民の体験を聴いた。

 前年まで卒業記念事業としてマナー講習などを行ってきたが、教職員を中心に「被災地を実際に見せたい」との声が上がったという。

〈「自分たちの目で見て、生の声を聞くことで命の大切さを知り、災害に遭っても大丈夫なよう心構えを身に付けてほしい」〉

 という校長の言葉が、同月9日の『河北新報』に載っている。一行の宿泊を受け入れたのが「ホテル観洋」だった。

全国から修学旅行

「東日本大震災は1000年に1度の災害といわれました。ならば、その被災地は1000年に1度の学びの場所。全国に呼び掛け、来ていただきたかった」

 と阿部さんは語った。

 町内の仮設住宅開設とともに避難所の運営を終え、ホテルは教育旅行の南三陸町への誘致に取り組んだ。当時は原発事故をめぐる風評が東北全体に広がり、被災地から遠い会津若松市でも、毎年5~6月に300校もあった修学旅行が2011年に9割減った。各地へ説明会に歩いたホテルの営業マンたちは先々の学校のPTAの説得に苦戦したが、不安を超えて熱い関心を寄せてくれたのが、修猷館高校など、東北から一番遠い九州の学校だったという。

「ある高校の校長は、下見においでになった時と修学旅行の時とでお姿が変わり、後で『いまこそ生徒に学ばせなくては、と親たちを説くために頭を丸めた』と聞きました」

 大学生のボランティア旅行で早かったのは福岡看護大学。ホテルも町内も断水が続いていた時期で、大学からの申し出に「何かあれば取り返しがつかない」と阿部さんが返事をしかねていると、「そうしたことが起きた時に活躍できる学生を育てたいのです」とのメッセージを学長からもらい、社員一同で感激したという。

 こうした被災地を訪ねた若者の体験談や発表文が、風評を超えて現地の風景と人の思いを学校から学校へと広めていった。多くの「学びの旅」が石巻や気仙沼など他の被災地も併せて訪れ、地域をつなぐ相乗効果も生んだ。

 修学旅行や大学のゼミ旅行、企業の研修でも、阿部さんは時間の許す限りホテルの会議室を用意し、自らマイクを握って語り部となり、被災地体験の「語り部バス」につなぐ。

 そこで必ず語られ、立ち寄られる場所が「高野会館」だ。

 2011年6月23日の『河北新報』(連載「ドキュメント大震災 逃げる その時」)は、津波襲来時、会館であった出来事をこう伝える。

〈会館を出ようと、ロビーに殺到した人だかりが歩みを止めた。階段の前で、従業員らが大きく手を広げ、仁王立ちになって行く手を遮っていた。「生きたかったら、ここに残れ」。男性の怒鳴り声が響いた。「頑丈なこの会館が崩壊するなら町は全滅する」。同会館営業部長の佐藤由成さん(64)は、1988年の開館当初から勤務。設計段階から知り尽くした建物の強度に自信を持っていた〉

〈地震発生時、3階の宴会場は老人クラブによる「高齢者芸能発表会」の閉会式のさなか。強烈な横揺れに大勢の客はパニック状態になった。1階にいたマネジャーの高野志つ子さん(67)が階段を駆け上がると、従業員らが来館者を上階に誘導するのが見えた。

 最高齢90代後半、平均80歳前後。来館者の避難は困難を極めた。「早ぐ上がって、早ぐ上がって」。営業課長の西條正喜さん(44)は列の最後尾で追い立てた。階段は人でびっしり。「このままでは津波にのまれる」。体力のある人がお年寄りを背負った〉

327人の命を守る

 高野会館は結婚式や同窓会、法事など冠婚葬祭でも、町民の誰もが利用したことのある総合会館だった。「津波が来る、帰したら危ない」という従業員らの判断で、高齢者の客ら327人(そして犬2匹)が会館にとどまり、屋上階まで浸した津波から全員の命を守った。

 大勢の人が犠牲になった町防災対策庁舎や公立志津川病院(入院患者ら75人が死亡・不明)と対照的な「生の象徴」となった建物。だが、震災伝承の遺構として保存されるか否かは定まっていない。

 防潮堤建設現場のそばに立つ真っ白い高野会館は、鉄骨だけの町防災対策庁舎を除けば、往時の町中心部にあった唯一の遺構だ。4階部分の外壁に「津波到達」の青いプレートがあり、想像を絶する高さと分かる。

 もともと「ホテル観洋」のグループで、華やかなシャンデリアで飾られた会館はあの日、津波で破壊された家々や船や車が各階のガラスを破って突っ込み、館内はがれきに埋もれた。いまはがらんどうで、不思議なことに結婚式場の大きな神棚や鏡は往時のまま無傷である。

 高齢者たちが避難した階段で屋上に至ると、膝下ほどの高さに、津波に浸った線がある。解体されて現在はない公立志津川病院が、ほぼ同じ高さで会館と向かい合っていたという。

「隣の病院ではエレベーターが止まり、患者さんを屋上まで避難させることができず、74人が亡くなりました。こうして話さなければ、もう分からなくなり、なかったことになってしまう」

 前編で紹介した「語り部バス」の案内役、伊藤俊さん(43)は高野会館の前で語った。

 会館は、設計者が通常の倍の強度の基礎を造り、災害時は避難場所にと考えた。営業部長の佐藤さんも設計に関わり、建物に信頼を置いていたが、大地震で芸能発表会がお開きになった直後、3階の窓から海の水が引いていくのを見て津波が来ると予測したという。

「佐藤さんは海の底を見たことがある人でした。チリ地震で志津川湾の海の水が引いた光景が重なり、来る前から津波が来ると分かった。だから『帰しちゃいけない。外に出ちゃだめ。生きたければ外に出るな』と言った。大事なのは生き残ること。『てんでんこ』(てんでんばらばらに、各自で、という意)でも生き延びて命を守ること。私の同級生も、前の年に子どもを産んで、これからの人生なのに、いまも見つかっていない。つらくても、伝える役目を託された人が伝えなくては」(注・チリ地震津波:1960年5月23日、チリ沖で巨大地震が発生し、24日未明に高さ5メートルを超える津波が旧志津川町を襲った。犠牲者は41人、流失家屋は312戸に上った)

 希少な津波の記憶伝承の場となった高野会館には、毎日の「語り部バス」、修学旅行などのバスが立ち寄るが、かさ上げされた10メートル上の幹線から会館に降りるルートは工事現場の曲がり道で、雨天でぬかるみ、そこにバス6、7台が連なる日もある。遺構を管理する阿部さんらは町役場に「震災遺構」として公的な保存や道路整備を要望してきた。2017年に「ジャパン・ツーリズム・アワード」(日本観光振興協会など主催)を受賞し、国土交通省の「震災伝承施設」にも登録されたが、町からはいまだ前向きな回答がないままだ。

震災遺構を残す意味

 阿部さんの父は「ホテル観洋」の親会社、気仙沼市の「阿部長商店」の創業者、阿部泰児さん(昨年85歳で死去)。古里の志津川で営んだ鮮魚店をチリ地震津波で失い、気仙沼に出て県内有数の水産加工会社を興した。震災の5年前に、市内にあった自宅に3階屋上に外から登れるらせん階段を設け、近隣住民に呼び掛けて避難訓練を重ねたという。

 東日本大震災の津波で周囲は被災したが、泰児さんや住民ら約20人が屋上で命を取り留めた。

「目で見て津波の怖さが分かるものを後世に伝えないといけない」

 と、2度の津波体験の教訓を込めた震災遺構として保存を市に訴え、高野会館と同じく国交省の震災伝承施設にも「命のらせん階段」として登録された。

 1995年1月17日の阪神淡路大震災の被災地、淡路島(淡路市)に、大地震とともに地上に出現した「野島断層」(国天然記念物)を保存公開する「北淡震災記念公園」がある。神戸市長田地区で焼け残った市場の防火壁、通称「神戸の壁」(高さ7メートル、幅14メートル)なども移築保存する同公園を、阿部さんは震災遺構の先達として2015年に訪ねた。

 そこで美術家三原泰治氏を中心に6年を費やした「神戸の壁」保存運動を知り、野島断層の近くの民家が震度7の激震に耐えた姿のまま「メモリアルハウス」として展示されているのを見た。公園の宮本肇総支配人は淡路市職員時代、民家の持ち主のもとへ「震災を伝えるために必要と説得するのに150回以上通った」と語った。遺構を残した人々の熱さに、阿部さんは「父の思いが重なり、私の使命もそれなのだ」と決意を新たにしたという。

 コロナ禍で日本中に「自粛」の波が広まる直前の今年2月下旬、「ホテル観洋」で「教訓が命を救う―『語り部』のもつ尊い使命―」と題し、「第5回全国被災地語り部シンポジウムin東北」が催された。

 被災3県や淡路をはじめ各地から、語り部の活動を行う人々が集い、震災遺構との向き合い方、記憶を未来に伝える方法などを現地視察とともに語り合った。400人以上が集うこのシンポの第1回、3回も「ホテル観洋」が会場を引き受け、阿部さんの人生の仕事になった。

 コロナ禍は東京など大都市を中心に「第2波」ともいえる感染拡大を見せ、旅行・宿泊業界が必死の期待を寄せる「Go Toキャンペーン」の腰も折り、その混乱収拾を政府はつけられないでいる。阿部さんが種まきをしてきた被災地への旅も途切れてしまうのだろうか。

「いま、全国から修学旅行の問い合わせが来ています。外国や国内の他の地方を旅行先にしていた学校が、代わりに感染状況が緩やかな東北の被災地を検討してくれているようです。これから先はまだ見えませんが、被災地の体験はきっと、コロナという新しい災害の日々にどう向き合うか、若い世代が考えることにも役立てるのでは」

 阿部さんとスタッフの被災地からの種まきがコロナ禍も乗り越え、「ホテル観洋」の宿泊客は現在、「Go To キャンペーン」もほぼかかわりなく、昨年の約6割まで戻ってきた。インバウンドの「数」と「金」を競った「コロナ以前」から、旅のありようも価値もまた確実に変わっていく。

寺島英弥
ローカルジャーナリスト、尚絅学院大客員教授。1957年福島県相馬市生れ。早稲田大学法学部卒。『河北新報』で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)などの連載に携わり、東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』『福島第1原発事故7年 避難指示解除後を生きる』(同)。3.11以降、被災地で「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を書き続けた。ホームページ「人と人をつなぐラボ」http://terashimahideya.com/

Foresight 2020年8月14日掲載

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