総理に仕えた「猛女」「ファースト・レディ」たちの鼻息…強い女たち列伝4
「おまえに一目惚れしてしまったんだ」と角栄
田中角栄が『日本列島改造論』を上梓し、石油ショックと相まってインフレに発展すると、怒り心頭に発した睦子は、のちに国土庁事務次官に就任する下河辺淳のもとを訪ねる。
「あなたがこれ、書いたんでしょう」
睦子の迫力に気圧(けお)された下河辺は思わず、「そうです」と答える。
「でも、これはもう5年も6年も前に書いたので、今とは時代がちょっとずれているんです」
「古くて使いものにならないのだったら、何で出版したの? あなたが身を楯にしてなぜ止めなかったのよ」
すべてこの調子である。三木政権時代、女総理の異名をとった睦子は、84歳になるいまも幾多の肩書きを持って活躍中である。
佐藤昭(当時、のち昭子と改名)が初めて田中角栄に会ったのは、新潟県柏崎市に雪が降り積もった昭和21年2月23日。生家である洋品店に、チョビ髭を生やした角栄が訪ねてきたのである。
「今度、衆議院選挙に立候補される田中さんです」
土地の有力者に紹介された角栄は、復員服姿が当り前の時代に背広を着、カシミヤのコートを着ていた。50歳くらいに見えたが、27歳だと聞かされて、昭はちょっとしたショックを受ける。その若さで、角栄は東京にある「田中土建工業」の社長なのだった。
誰もが敗戦で鬱々としていた時代に、自分と10歳しか違わない無名の青年が選挙に打って出ると知った昭は、選挙用のハガキ書きを引き受ける。この時の選挙では次点だったが、これが、その後半世紀近くも続く角栄との付き合いの始まりだった。
後年、角栄はこの日のことをしばしば話題にし、昭にこう言った。
「おまえに一目惚れしてしまったんだ。あの時、連れて逃げようと思ったんだが、おまえは堅気の娘だったし、もう婚約者もいたからなあ」
18で結婚した昭は、夫が別の女を作ったことで家を出て、25歳の時に正式に離婚する。その後、新橋のキャバレーのホステスになり、客として来店した男と再婚をするが、この結婚も、結局は破綻する。
将来ある政治家に認知を求めるつもりはなかった……
児玉隆也のレポート『淋しき越山会の女王』の中で、2度目の結婚相手だった男性は、離婚の原因についてこう語っている。
「私の父が定年後に商売をするので昭から金を借りたが、彼女に利息が払えなかったり、私が彼女の流産の日にマージャンをしていたりした負い目。それ以上に、いつまでたっても出世の見込みのない私の世界と、私には気の遠くなるような肩書きの人と対等につきあえ、私よりもはるかに収入の多い彼女に対するひけ目などが重なってのことです」
政治家の秘書に過ぎない彼女が、なぜ大井町にアパートと家を建てた上、亭主の父親に事業資金を融資することが出来たのか? 昭和38年には山中湖に別荘まで買っているその時点での昭の月給は3万2000円余り。おかしい。どうにも計算が合わない。
〈マダム・デビにはほど遠いとしても現代の寓話である〉
要するに、角サンは身内にとってはとても有り難い人だったわけだ。問題は、国民の大半が彼の身内でもなければ、秘書でもなかったということだろう。
もちろん、昭は角栄に感謝し、そして、彼を愛した。
〈子供がほしいと思うようになった頃、夫との生活は完全に破綻していた。もはや何のつながりもなかったと言っていい。それでも天涯孤独の身だった私は、どうしても血のつながった肉親がほしかった。
娘の誕生――それは 至福の瞬間だった。人生でもっとも大切なものが授けられたような気がした。
将来ある政治家に認知を求めるつもりはなかった……〉(『決定版 私の田中角栄日記』)
彼女にとっては至福でも、周囲の人間にとっては、新たな恐怖の始まりと思えたに違いない。あの当時、田中角栄の子供を産んだ女に逆らえる人間がいただろうか? そんな無謀なことが出来たのは、唯一、田中真紀子だけである。異母妹を産んだ父親の女秘書に、彼女がどれほどの怒りを抱いたかは想像に難くない。
昭和60年2月、角栄が病に倒れると、田中家からの突然の通告により、事務所は閉鎖され、昭は秘書としての解雇処分を受ける。
田中真紀子は土井たか子にも負けない第一級のアジテーターであり、色々な意味で注目すべき政治家である。しかしながら、どこか苛立ったような、あの漲るパワーの源泉は、佐藤昭に対する怒りにあるのかもしれない。(敬称略)
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