総理に仕えた「猛女」「ファースト・レディ」たちの鼻息…強い女たち列伝4
三木武吉や河野一郎に相談して赤坂芸者に手を引かせた
鳩山内閣誕生を目前に公職追放となり、パージ解除の直前に脳溢血で倒れた鳩山一郎は、「悲劇の政治家」と言われた。鳩山家はそのまま昭和史から消え去るかと思われていたのだが、それを救ったのが薫の内助の功で、「奇跡の政界復帰」を遂げた鳩山一郎は、日ソ国交回復の大役を見事に果たす。
鳩山一郎には赤坂芸者の愛人がいた。この愛人はずうずうしくて、平気な顔で軽井沢にやって来たりした。
「鳩山は、例の人と一緒に避暑しているんですよ。私なんか年をとってサービスできませんから、まあ、若い人にまかせておきましょ」
親しい女友だちにそう漏らす一方、薫は実力者である三木武吉や河野一郎に相談して赤坂芸者に手を引かせた。「総理大臣を作った女」と言われる所以である。昭和57年、93歳の長寿を全うして永眠。
愛人が発覚したり、選挙に落ちてみたり、「友愛」などと言いながら下らない兄弟喧嘩をしてみたり……孫たちが我々にパッとしない印象を与えるのも、祖母が立派過ぎたせいかもしれない。
戦後最長の7年8カ月という長期政権を敷いた佐藤栄作は、ひどく無口な男だった。妻の寛子によれば、「ひどい時には、たったふた言しか話さない日もあった」という。
当然ながら、佐藤は自分の口を開かせようとする新聞記者が大嫌いだった。
「新聞記者は出て行け。テレビはどこだ」
遂に官邸を去ることになった日、会見場に現れた佐藤がそう怒鳴ったのは、いまや伝説である。森喜朗なんか、佐藤栄作に比べれば可愛らしいものだったわけだ。
佐藤栄作は、大正3年、東大を出て鉄道省に入省し、本省の自動車局長から傍流の大阪鉄道局へ出された。本人はショックだったらしいが、これにより戦後の公職追放を免れる。終戦を迎えた時、エリートコースをひた走っていたライバルたちが追放の憂き目に遭ったのを尻目に、佐藤は鉄道総局長官、運輸次官と上り詰め、吉田茂の目に止まり、議員バッジなしで第2次吉田内閣の官房長官に就任する。
歯切れのいい山口弁で快活に喋る、生涯の伴侶に恵まれた佐藤栄作
「これを足場に山口2区から出馬した佐藤は、自由党幹事長、郵政兼電気通信大臣、蔵相、通産相、科技庁長官兼北海道開発庁長官と三段跳びまがいの出世の挙げ句、池田勇人の病気退陣により、総理のポストまで手に入れたのです」(政治評論家・小林吉弥)
要するに、ちょうどいい時に、ちょうどいい場所にいたのである。
「8年近い長期政権になったのは3つの要素があった。人材に恵まれていたこと、総理になってからも強運に恵まれていたこと、そして生涯の伴侶に恵まれたことです」
あの松岡洋右(国際連盟脱退時の首席全権)の姪である寛子は、毎晩オールド・パーを1本空けたと言われる叔父譲りの酒豪だった。彼女は、夜回りに来る記者に酒を振る舞い、自らも飲んだ。記者たちは陰険な佐藤を嫌っていたが、寛子のことは好きで、これが長期政権を陰で支える力となったのである。
ロクに口をきかない夫とは対照的に、マスコミ好きで、出たがりの寛子は歯切れのいい山口弁で快活に喋った。
「主人はこわいですよ。力も強いですしね。私、ずいぶんなぐられました」
昭和44年、『週刊朝日』で遠藤周作と対談した彼女は、冗談めかしてそんな話をした。と、これが直訳され、そのまま外電として流れた。
〈お気の毒な佐藤夫人〉
〈首相に殴られていたファースト・レディ〉
記事を読んだ先進諸国の人たちは、これをスキャンダルと受け止めた。
「私、もう首でもくくって死にたいわ」
反響の凄まじさに音を上げた寛子がそうコメントすると、より衝撃的なニュースが世界中を駆け巡った。
〈日本の首相夫人は、“放言”を苦にして首吊り自殺を決意した〉
この「ワイフ・ビーター事件」は、文字通り世界の津々浦々にまで浸透した。何しろルバング島に潜伏していた、あの小野田寛郎までが、この事件を知っていたのである。
〈さすが情報将校・小野田さん〉
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