GHQ将校に媚を売った上流婦人たち…強い女たち列伝3

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他の幹部らは、当初は単身赴任であった

 日本の改革、解放を旗印にわが国にやって来たGHQの幹部たちにとって、何よりも急務だったのは解放――自分たちの欲望の解放であった。時の政府要人もそのへんは心得ており、それに相応しい女性たちを血まなこになって探してきた。まるで女衒(ぜげん)ではないか、とは言うなかれ。GHQとの融和を目指した先人たちの「配慮」こそ、その後の繁栄の礎となったのである。

(※「週刊新潮」2001年5月31日号に掲載されたものです。肩書や年齢は当時のまま使用しています)

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 皇居のお濠端に建つ第一生命ビルに陣取ったGHQには、ダグラス・マッカーサー元帥を筆頭に、GS(民政局)のホイットニー、G2(参謀第2部)のウィロビー、ESS(経済科学局)のマッカートらが顔を揃えていた。

 彼らはマッカーサーの側近中の側近であり、マ元帥の愛機「バターン号」に乗って行動を共にしていたことから「バターン・ボーイズ」とも呼ばれたが、GSとG2の間に占領政策を巡る暗闘があったことはよく知られている。

 それはそれで面白いのだが、占領史の勉強は、ひとまずこれにて終了。

 我々の興味は、そんなことよりも、こうしたGHQの高官たちがどのようにセックス処理をしていたのか、という一点に向かう。実のところ、戦後政治史はここから始まるのである。

 マッカーサーは女房を連れてきていたが、他の幹部らは、当初は単身赴任であった。男の本心としては手っ取り早く現地調達といきたいところだし、実際に大半の部下はそうしていた。しかし、名もないヤンキーならいざ知らず、GHQ高官ともなると、立場上、そのへんの薄汚いパンパンを買うわけにもいかない。

 彼らはどうしたのか。GSに在籍していたH・E・ワイルズは、著書『タイフーン・イン・トウキョウ』の中でこう記している。

通訳を通じての政府は、多くの場合、情婦を通じての政府に発展した

「通訳を通じての政府は、多くの場合、情婦を通じての政府に発展した。そもそもの最初から、日本人は女を武器にして占領軍に勝つ目算を立てていた」

 わが政府も、彼らの暗黙の求めに応じる用意はできていたのである。なにやら、銀行のMOF担の「ノーパンしゃぶしゃぶ接待」を思い起こさせるが、これはもう日本の伝統と言うべきであろう。

 ともあれ、日本の要人たちはGHQの高官を招いてしばしばパーティーを催し、彼らのご機嫌を取り結んだ。そうした席で接待に当ったのは旧華族の女性たち、いわば日本の上流夫人たちだった。「占領『鹿鳴館』時代」と評されるのはこのためである。

 こうして我々は何組かの「親密なカップル」のリストを手にすることになるわけだが、まずは最も有名な、GS次長のケーディス大佐と、「マダム烏尾」こと烏尾多江のケースから見ていくことにしよう。

 昭和21年2月、旧子爵夫人である烏尾多江(33)=当時、以下同=は、学習院時代からの親友で、やはり子爵夫人である鍋島重子(34)と共に玉川電車の停留所に向かっていた。戦災を免れた不用物資を進駐軍に売却しようと、新橋の第一ホテルに向かう途中だった。

 そこに黒塗りの外車が通りかかり、中から声がかかった。

「お荷物、大変そうだからお送りしましょう。さあ、乗った、乗った」

 女たちは、さして気後れすることもなく、車に乗った。

「烏尾でございます。恐れ入ります」

 多江が自己紹介すると、黒縁メガネをかけた押し出しのいい男が、「楢橋です」と答えた。幣原内閣の書記官長(現在の官房長官)に任命されたばかりの楢橋渡だった。

「お美しいご婦人方だ」

 ヨーロッパでの暮しが長かった楢橋は、そんなお愛想を言って二人を新橋まで送り、帰りにも車を回した。もちろん、楢橋は単なる親切心からそうしたのではない。彼は、GHQに最も人気があった「楢橋パーティー」の主催者だったのである。

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