掃き溜めのツル「八頭身美人」の登場…強い女列伝2
「年金生活の老夫婦として静かな生活をしておりますので」
「背の高い人だな、という印象はありました。足が長かったことも事実で、非常にいいプロポーションでした。でも、お富士さんなんかとは違って、ひっくり返るほどの美人ではなかった」
とはいえ、彼女の人気は凄まじく、本選前に行われた銀座でのパレードは大変な人出だった。
「本当に華やかなイベントでね。銀座でパレードなんていうのも初めてだったんじゃないかな。あらゆる意味で、彼女はパイオニアでしたよ」
写真で見る限り、伊東絹子には戦争の影がどこにも見出せない。しかし昭和ヒトケタ世代の彼女が、あの戦争に翻弄されなかったはずもない。
伊東絹子は昭和7年、東京・芝に酒屋の末娘として生れた。父親は彼女が4歳の時に他界している。戦時の企業統制で店を畳み、阿佐ヶ谷に移り住んだ後、満州に渡るが引き揚げ船の中で母と姉一人を亡くしている。戦前の宝塚男役スターで、一時マネージメントをしていた笠置八千代によれば、
「絹子は末っ子だったからね。お母さんとお姉さんが食べ物でもなんでも絹子にあげて、栄養失調で亡くなったのよ」
早くに両親を失った彼女は実兄のもとに身を寄せ、都立鷲宮高校を卒業後、英文タイプを習得して事務員として働いていた。
ここまでは平凡なプロフィールであり、彼女自身も結婚以外の何かを望んではいなかった。が、19歳の時、英文毎日が募集した「ティナ・リーサ」賞に2000人の応募者の中から選ばれたことで、モデルの仕事を始める。
モデル仲間だった相島政子は、「伊東さんは別格だった」と言う。
「地方に行っても、彼女を見たさに楽屋に大勢の人が来ていました。地方はいまと違って情報も入らない。本当に伊東絹子が来るのか分らなくても、どんどん人が集まるんです。私たちのギャラが一日1万円程度だった時に、彼女だけは破格の10万円。方々にデパートが出来て、ディオールも来日し、ファッションが注目されていたんです。彼女はモデルとしても大活躍していたけれど、決定的だったのはやはりミス・ユニバースですね」
世界第3位の栄冠を勝ち取った後、彼女はユニバーサル映画などに出演。翌年にはデザイナーへの転身を表明してパリへ修業に出かけ、帰国後は銀座に「伊東絹子の店」を出して話題になった。しかし、43年にパリの日本大使と結婚してからは一切表に出なくなってしまった。
「自分の話をするなんて、まだそういう気にならないんですの。気恥ずかしいんです。わたくし、本当に恥ずかしがり屋ですの。年金生活の老夫婦として静かな生活をしておりますので、どうかそっとしておいて下さい」
ミス・ユニバース世界一
〈産経新聞社がミス・ユニバースに日本代表をおくること八年、ついに世界一の美女が誕生した〉
昭和34年夏、「週刊サンケイ」はそんな書き出しで8ページもの記事を書いている。
日本大会の主催社がはしゃぐのも無理はない。わが日本代表の児島明子(=当時=23歳。168センチ、55キロ。93・58・97)が、とうとう世界一の美女に選ばれたのである。これはもう快挙である。万歳である。
第1回大会から日本大会の審査委員長を務めていた川口松太郎(故人)も大喜びだ。
「まさか第1位とはねえ。審査委員長を8年間続けてきて、ようやくミス・ユニバースが生まれた。嬉しさもひとしおだよ。いままで、もう生涯ミス・ユニバースは生まれないかもしれぬと諦めかけていた矢先だからね。ともかく、これでいつでも安心して審査委員長をやめられるというものだ」
いやあ、メデタイ、メデタイ。来年のワールドカップも是非こうあってほしいものだが、とうてい無理だろうから、ここは一つ、過去の栄光を偲ぶことにしよう。
〈七月二十五日午後三時四十分――。ロングビーチのミス・ユニバース選出大会の結果を待機していた本社外信部に「児島明子第一位に決定」の第一報が入電した。一瞬、十数名の部員は耳を疑った〉
〈現地のロングビーチ特設支局や外電からの情報を総合検討した結果は「どうにか入賞するかもしれない」――といった程度のものだった。(中略)
が、これは嬉しい誤算だった。正真正銘、日本代表児島明子さんがミス・ユニバース第一位に決定したのだ。このビッグ・ニュースに外信部、社会部はじめ編集局にどっと歓声があがった〉(「週刊サンケイ」)
児島明子は昭和11年、東京の生まれだが、中2の時に父が急死したため、母の郷里である高知に行き、高知商業に入学する。
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