掃き溜めのツル「八頭身美人」の登場…強い女列伝2
美人という修飾語の宿命
戦後の食糧難からようやく脱しつつあった時代に、突如として現れた「八頭身美人」。日本女性の代表として世界に羽ばたいたうら若き美女たちに、大半が六頭身だった日本人は喝采を送ったのである。だが、「八頭身美人」の登場は、か弱く、薄命で、男の庇護下にあったはずの女性たちの価値観を一変してしまった。男を見下ろすような肉体の持ち主こそが美人なのだ、と。
(※「週刊新潮」2001年5月24日号に掲載されたものです。肩書や年齢は当時のまま使用しています)
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女が事件を起こせば、よほどのことがない限り、マスコミは「美人妻」「美人OL」などと報じる。逆に、「美人」という言葉がついていなければ、その女はかなりの不美人であると考えた方がいい。
『美人論』の著作がある井上章一・国際日本文化研究センター助教授は、かつて「首なし美人死体」という見出しを目にしたことがあるという。いくら何でも、これはちょっとやりすぎだが、不美人が何をしでかそうと、世間はほとんど関心を持ってくれない。そこで我々も、つい「美人」と書いてしまうわけだけれど、そのへんは、まあ、大目に見てやって下さい。
しかし、今回は本物の美人の話をしようと思う。歴史的美人、そう言い換えてもいい。
ただ顔立ちがいいだけではいけない。スタイル的にも完壁に均整がとれていて、なおかつ楚々とした風情を漂わせていた日本女性――昭和20年代のマスコミは、そうした女性を「八頭身美人」と呼んだ。
飽食の時代をはるかに経て、いまでこそ「八頭身不美人」なんてのもザラにいるが、ある時期までの日本では、「八頭身」といえば「美人」と相場は決っていた。
焼け跡から身を起こし、まだまだ貧しさに喘いでいた当時の日本人にとって、欧米の女性たちにも引けをとらない「八頭身美人」の登場は、GHQに無理やり押しつけられた民主主義などよりも、はるかに衝撃的だったのである。
「ミス・シルク」こと伊東絹子がもたらした最大の影響とは
「キムコ」という冷蔵庫の脱臭剤がある。
一説にこのネーミングは、米国の脱臭剤メーカーが日本進出に当って、当時世界的に有名だった日本人女性、伊東絹子(21)=当時=にちなんで名づけたものだという。
当時の報道によれば、「胸囲86、羽回り56、腰回り92」――これが第2回ミス・ユニバース世界大会で堂々の第3位に選ばれ、「八頭身美人」として一世を風旅した伊東絹子のプロポーションである。
なぜキヌコがキムコになったのかは謎だが、メーカーの思惑は当り、キムコは大ヒット商品になった。キムコの、いやキヌコの登場はそれほどのインパクトを持っていたのである。
フランスベッド元会長の池田實(故人)は、センベイ布団が主流だった戦後の寝具界に革命をもたらした人物として知られるが、彼もまた、
〈八頭身スタイルはベッドから〉
というCMを流すことによって飛躍的に売上げを伸ばした。
しかし、「ミス・シルク」こと伊東絹子がもたらした最大の影響は、女性の美は計測可能であるという認識を高めたことだろう。身長164センチ、体重52キロ。見事という他ないスリーサイズに加え、頭が小さく、脚が長く、八頭身のスタイル。それこそが理想なのだ――彼女の登場によって、多くの女性がそう考えるようになったのである。
〈容貌。すばらしく美しいとはお世辞にも申せぬが、可憐。日本的というより東洋的、ないしは東方的。これが案外、ミス・ユニヴァース・コンテストでエキゾティックな魅力とされたのかも知れぬ〉
伊東絹子の入賞に日本中が沸き立っていた昭和28年の夏、「週刊朝日」は、そんなふうに彼女を紹介している。
その当時、ミス・ユニバースの予選を主催していたのは産経新聞であるが、同社の事業部長だった前田富夫も、顔だけなら「山本富士子の方が上」と言う。
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