文在寅も激励、日本国内の「最後の徴用工村」…政治的に利用されてきた歴史をひもとく
ほとんどが独身で家族連れにも社宅提供、強制動員者が暮らした事実はない
韓国人には、植民地支配体制の下で、京都飛行場建設へ強制的に動員された労務者たちとその家族がついに故国に戻ることなく村をなして住むことになったという意味で、「ハン」(恨み)が宿るところとして認識されている。
では、ウトロ在住の在日韓国人(朝鮮人)が居住権を主張していた根拠は何か。「ウトロ住民は、1944年9月から1945年3月までの期間、朝鮮半島でも実施された日本政府の『国民徴用令』によって強制的に日本に連れてこられた徴用労務者とその子孫であり、ウトロ住民の居住権は日本政府や日本の国際航空工業の後身の日産車体、更には日産グループが保証しなければならない」というものであった。
しかし、戦時、強制的に徴用された労働者は、ほとんどが独身であり、彼らは通常、会社の寮で生活をしており、まれに家族を連れた場合には、社宅が提供された。つまり、強制動員された徴用者たちが村を成して暮らした場合はなかったのである。
また、ウトロ住民が作った「ウトロ国際対策会議」(現在はホームページが消えて確認できない)によると、日本の国際航空工業の1300人の朝鮮人労働者は、そのほとんどが国民徴用令や国家総動員によって日本に徴用されてきたのではなく、経済的理由と徴兵などを避けて移住してきた者たちであると明示していた。
また、韓国政府の「日帝強占下強制動員被害者真相究明委員会」における2006年末の報告書にも、ウトロの住民に対して「強制徴用者ではなく、元から日本に居住していた朝鮮人がほとんど」と明示されている。
つまり、ウトロ地区は、徴用以前から日本に居住していた朝鮮人をベースに、ここに1930年代末に日本に渡ってきた貧しい朝鮮人や被徴用者たちが合流して形成した村であると理解するのが正確だろう。
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