夏の甲子園「中村順司氏」が今も忘れない名勝負 1983年「PL学園VS横浜商」

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藤本耕選手の闘志

――藤本さんが準々決勝の高知商戦で好投しているというのもあったんでしょうか?

中村:高知商戦は5回表を終わって8-0でリードしていたんですが、それが6回終了時には10-9で追い上げられる苦しい展開になっていたんです。

 そこで3番手投手として藤本を投入したんですが、完全に勢いづいていた相手打線を残りの7、8、9回と抑えた。彼に対する信頼はもうその時点でありました。

 あと藤本に関してはね、1回戦の所沢商戦で桑田が完投勝利したときに、寂しい思いをしたんじゃないのかなと。やっぱり背番号1のエースでしたから。

 所沢商に勝った次の日の練習で、バッティングピッチャーをやってくれたんです。本人がチームの役に立ちたいっていう思いからなんですが、その最中に足に打球を当ててしまうアクシデントがありまして……。

 当然、僕は「おい、もう藤本やめとけ~~」って止めたんですが、彼、屈伸したあとに「いや、大丈夫です」って言ってまた投げた。結局、その日は120球くらい投げたのかな。それなのに、また次の日も投げたんですよ。その気持ちに応えたいなっていうのはすごくありましたね。

夏の初優勝を達成

――そして7回裏に待望の追加点が入りました。

中村:その追加点が藤本のバットなんですよ。2死一、二塁から打席に入ったんですが、三浦くんの決め球の大きなカーブを打ったらショートゴロになって……。

――その打球がイレギュラーするんですよね。

中村:ショートの西村(隆史)くんのグラブを大きく弾く形になって、それをセカンドの信賀くんがバックアップして懸命のバックホームをするんですが、間一髪セーフになりました。貴重な2点目になりましたね。

――8回裏には3番の加藤正樹選手(元・近鉄)がライトへソロホームランを放って、3-0になりました。結局そのまま勝って、中村監督としては夏の初優勝です。

中村:夏の甲子園で初優勝したことよりも、もっと僕が嬉しかったのは本当にこのチームで甲子園に出られたことがまず凄いなと思ったんですよ。

 というのは、前年の10月くらいにこの大会の優勝候補の一角に挙げられていた中京(現・中京大中京=愛知)と練習試合をしたんです。あのときの中京にはエースの野中(徹博=元・中日など)くん、2番手投手に紀藤(真琴=元・広島東洋など)くんがいて、他にも185センチくらいの選手が何人もいる大型チームだったんですよ。

監督を襲うプレッシャー

 一方でウチの3年生は、実力も体つきも体力的なものもすべて小粒で、当然、圧倒的な差で負けたんです。要はそんなチームがね、そこからわずか10カ月であんな優勝するようなチームになっていくんですからね、高校野球の怖さっていうのを逆に私が知りましたよね。本当に「ようこれで勝てたなぁ~~」って。

――最後に、夏の甲子園で初優勝したことで、何か得られたものがあれば教えてください。

中村:優勝した次の日の新聞を見たときに「あと2年3年、春夏全部優勝しようぜ」って桑田と清原が言ってたんですよ。高い目標を持ってくれてホッとしたと同時に逆にプレッシャーかけられましたよね(笑)。彼らがそうなら自分も気を抜けないな、という思いでした。

 やっぱり1年1年着実に成長していくのが理想なんですよ。逆に「ああ、1年生で優勝したのに、何でアイツ、2年3年のときは全然ダメなんだ」って言われるのは、指導者に対する評価と同じですから。

 結果的に2年のときは春夏ともに準優勝、3年の春がベスト4で、最後の夏が優勝ですか。全部優勝するという壮大な夢は叶いませんでしたが、でも彼らは十分に結果を出してくれたと思っています。

週刊新潮WEB取材班編集

中村順司(なかむら・じゅんじ)
1946年8月5日生まれ。福岡県出身。PL学園を経て、名古屋商科大に進み、卒業後は社会人野球のキャタピラー三菱でプレーした。76年にPL学園のコーチとなり、80年秋に監督に就任した。98年の春の選抜を最後に勇退するまでの18年間に甲子園に春夏合わせて16度の出場に導いた。立浪和義(元・中日)、片岡篤史(元・阪神など)ら多くのプロ野球選手を育て、監督就任後から、すべての年度の卒業生の少なくとも1人以上を最終的にプロ入りさせている。座右の銘は「球道即人道」。

インタビュー・文:上杉純也

2020年8月11日掲載

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