夏の甲子園「中村順司氏」が今も忘れない名勝負 1983年「PL学園VS横浜商」

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桑田の修正能力

――のちに横浜(神奈川)の部長として多くのプロ野球選手を育て上げた小倉清一郎さんが、この当時、横浜商のコーチとして在籍されていたんですね。その小倉さんが桑田さんのクセを見破ったと聞いています。「マウンドで二塁に走者を背負うと、1度しか二塁を見ない。そのときに牽制がなかったら、スタートを切れ」って。

中村:僕はね、あまりにもスタートがいいから、これはおかしいと。で、ピンチを凌いでベンチに帰ってきた桑田に「おい、クセを盗まれてるよ」って。続けて「セットに入ってから1回だけじゃなくて、2、3回くらい二塁を見て、やっぱり走者を牽制して投げなきゃいかんよ」という話をしました。そしたら次の2回表に同じ1死二塁という状況が訪れたんです。

――そのときに今度は1度しか二塁を見るハズのない桑田さんが2度見たんです。そしてスタートを切ろうとしていたランナーを牽制でアウトにしたんですね。

中村:この修正能力を見た小倉さんは「この投手は凄い」って言ったらしいっていう話をのちに聞きましたよ。

不眠症だった清原

――ピンチを2度防いだPLがその裏に先制点を挙げるんですが、それが4番・清原さんのソロ本塁打でした。そしてこれが清原選手にとっての甲子園第1号となりました。あれは三浦さんによると、“打倒・池田”のために修得したフォークがすっぽ抜けたのを清原選手がライトラッキーゾーンへ運んだと。

中村:あのときの清原は、それこそ前日の池田戦で水野(雄仁=元・読売)くんに4三振食らっていたから、やっぱりコンパクトに指1本分空けてバットを構えていたんです。それが功を奏した形になりましたよね。

 清原に関して付け加えると、実はあの大会、1回戦2回戦と清原は全然ダメだったんです。神経性の下痢に悩まされていました。

 それは清原にしてみればもう甲子園に初めて出て、しかも1年生で4番ですよね。だからもう、それこそ寝むれないぐらいにまで追い込まれていたんですね。

 だけど3回戦の東海大一との試合で身体近くに来たボールをよけようとしてその球がバットに当たったんですが、その打球がライト前に落ちたんですよ。それが甲子園春夏通算13本塁打を誇る清原の甲子園初ヒットです(笑)。

 それが良薬になったのか、もう落ち着いてプレーができるようになったというワケです。

桑田交代の理由

――なるほど。そしてこのまま試合は1-0で進んでいって、7回表に桑田さんからエースナンバー1を背負う藤本耕さんにピッチャー交代していますが、あの1-0で勝っている状況でリレーっていうのは、かなり勇気がいったんじゃないかなと。その意図を教えてください。

中村:あのとき桑田が1アウトからファーポールを出すんですが、その最後の球が抜けるんです。その瞬間に頭に浮かんだことは、傷口が浅いときに代えようと。

 というのも、桑田にはあと4回も甲子園に行くチャンスがあります。せっかくの1年の夏に決勝まで行ったのに、ここで自滅して四球出してランナーを貯められて、同点、逆転となったら、これからの彼の高校野球人生がダメになると思いました。

――優勝するっていう緊張感もありますし。

中村:だからそういうなかでね、今後の桑田のことを考えると、これがきっかけで故障してもイカンなと。桑田を酷使して1年生で決勝で負けて、そしてそのあとに肩が痛い、ヒジが痛いとかってなると、なんか潰してしまったとかね。みなさんそう言われますよね。だからそうなる前に、もう傷口が最小限のときに交代することにしたんです。

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