宅急便を再設計して新しい物流を作り出す――長尾 裕(ヤマトホールディングス社長)【佐藤優の頂上対決】
イノベーターの血脈
佐藤 宅急便という完成されたサービスがある中、新しいサービスを導入するのはたいへんなことです。
長尾 私どもの会社は創業して100年を超えました。当社の面白いところは、創業者の小倉康臣からイノベーター気質があり、常に新しい取り組みをしてきたところです。小倉康臣は、まだ日本に204台しかなかったトラックの4台を購入して事業を始めました。
佐藤 当時のベンチャービジネスですね。
長尾 そうです。まずは貸切で荷物を運ぶ仕事を始めました。まもなく三越百貨店の仕事をいただき、順調に業績が伸びていきました。創業11年目には定時に営業所から営業所へ、複数のお客さまの荷物を積み合わせて運ぶ路線事業を日本で初めてスタートします。これがいまの宅急便の原点になります。
佐藤 それが有名な小倉昌男さんに受け継がれていく。
長尾 その通りです。小倉昌男が社長に就任した頃は、会社の経営状態があまりよくありませんでした。そこで個人のお客さまから個人のお客さまへ荷物を運ぶ宅急便を考え出した。1976年のことです。
佐藤 当時は画期的でしたね。それまで遠くに送る小口荷物は、郵便小包か、チッキと呼ばれた鉄道小荷物しかありませんでした。郵便局や駅まで足を運ばねばならず、チッキは受け取りも駅で、たいへんでした。
長尾 そうですね。そこで当社は商業貨物をいったん止めて、個人のお客さまを対象としたサービスを作った。CtoC(消費者間のやりとり)に特化して、お客さまに身近でわかりやすいパッケージを作ったのです。
佐藤 学生時代はヤマトでアルバイトもした長尾さんですが、入社されたのは何年ですか。
長尾 昭和最後の入社で、1988年です。その年に、当社ではクール宅急便が始まります。これも大きな変化で、日本の流通がかなり変わったと思います。それまでのお歳暮は、新巻鮭や数の子だったり、みかんやリンゴが一般的でした。
佐藤 昭和のお歳暮の定番ですね。
長尾 でもクール宅急便によってお中元やお歳暮、ギフトなどでは、アイスクリームや牛肉はもちろん、山口の下関からはフグも来るようになりました。
佐藤 確かに日本中から名産品の生モノが届くようになりましたね。
長尾 生産者の方々にとっては、従来型とは違う販路が新たに生まれていったことになります。
佐藤 しかも沖縄の久米島でも、東京の八丈島でも、普通に荷物を出せる。
長尾 私の入社はバブル景気の最中ですが、恐らく当社の社員は、バブル崩壊をあまり実感していないと思います。
佐藤 どうしてですか。
長尾 バブルが弾けて景気が悪化してきても、宅急便の扱いは年々増えていきました。バブル崩壊後もかなり高い成長率を維持したのです。現場にいると、拡大、拡大で、やることが山ほどあった。人も車も増やさなくてはいけないし、店も増やさなくてはいけない。そういった対応に毎日奔走していましたね。
佐藤 なるほど、むしろバブル崩壊後に成長してきた。
長尾 当社にとって一番大きな変化は、平成最後の10年くらいにあります。iPhoneが発売され、スマートフォンが普及していったことで、仕事の内容がどんどん変化してきた。
佐藤 eコマースの拡大ですね。
長尾 はい。アマゾンが台頭し、それと呼応するように日本の中でもEC事業者が次々に生まれて、eコマースが広がっていきました。その成長スピードは私どもが想定していたものよりかなり速かった。個人が情報をつかむ速さも量も増し、荷物が急速に増えていった。
佐藤 欲しいものをネットで調べて、その場で買えるようになりましたから、消費行動そのものが大きく変わりました。
長尾 その中で先ほど申し上げたように荷物の性格が変わってきました。お客さまが起点になる荷物がどんどん増えてくる一方で、社会環境の変化から再配達が増加しました。そこで宅急便の思想を再設計する必要が出てきたのです。
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