「徴用工」…韓国にとって不都合な真実とは? 日本で成功した姿を親族が語る
徴用工だった叔父がいかにして成功したのかに興味があった
私はといえば、叔父が日本にいるため「海外縁故者」のレッテルを貼られ、大学進学や海外出張などに様々な制限があった。それでも叔父にとっては大学教授だった私が「自分の話の本質を聞いてくれる」唯一の甥だったようで、北朝鮮滞在時は一緒に行動することが多かった。
私が出会った頃の叔父は、千葉県に大きなビルを建て、デパート経営をする落ち着いた紳士だったこともあり、徴用工だった叔父がいかにして成功したのかに興味があった。なので、叔父の話は今も頭に残っている。
1944年、中学卒業後に両親を手伝って農業を営んでいた叔父は、当時の生活に息苦しさを感じていた。徴用工募集はそんな叔父にとってまたとないチャンスだったのだ。日本に行って頑張れば大金を手にでき、日本の高校や大学にも行けるという噂を聞き、当時の朝鮮の青年たちはこぞって一旗揚げるために日本に渡った。
およそ70人の青年たちと一緒に叔父が船に乗って行った先は北海道の炭鉱だった。仕事はきつく、両親を思い出すこともあったが、故郷を離れるときに立てた立身出世の志を心の支えにして耐え、一生懸命働いた。特に給料は故郷では考えられないほどの大金で嬉しかったという。
叔父の話の中で共感したしたのは次のような話だった。
《私が炭鉱でお金を稼げたのは、他人よりも徹底して禁欲したからだ。給料をもらったからと酒を飲んでタバコを吸い、女性を買ったらいくらも残らない》
《給料をもらうとき、控除分がいくらと計算して、なるべく少なく天引きされるようにした。給料のかなりの部分を貯金に回してとにかく貯めた》
《終戦後に手元にあった金の半分を両親に送り、残りの半分を元手に世話になった人と一緒に東京へ行き、商売を始めた。あの金がなければ、今も日本でくすぶっていたかもしれない》
当時を振り返る叔父の話は、苦役や不当に受けた扱いによる苦しみよりは、一生懸命働いて稼いだ金で両親を喜ばせ、日本での定着と成功から来るプライドをひしひしと感じさせるものであった。
過去よりも現在と未来をより重要視する北のスタンス
叔父の話を聞きながら、私はこんなことを思った。
北朝鮮は、自国の青年たちをロシアなど海外に出稼ぎ労働者として送り、叔父よりもさらに劣悪な環境で死にものぐるいで働かせ、3~5年後に戻る時にはカラーテレビを数台買える大金を握らせたというけれど、これは日本の徴用よりひどい収監だ。これこそが、現代版の徴用と呼ぶにふさわしい。
叔父の話はこれくらいにするが、最後に言いたいことは、日韓の過去の歴史に対する脱北者たちの願いだ。
韓国のように感情的に日韓関係を動かそうとするのは正しくないと思う。北朝鮮の政権も韓国に刺激され、日韓関係改善の政治カードとして徴用工問題を握ってはいるが、金日成と金正日の語録を読み返しても、過去よりも現在と未来をより重要視しているのが、北朝鮮のスタンスだ。
過去に縛られていては後の世代に悪影響しか及ばさない。日本も韓国人たちが納得する謝罪をして、未来志向的なステップを踏み出さねばならないと思う。
韓国の場合、歴史問題を政治的に暴き出し、金銭的補償のみで問題の解決を進めようとすれば、日本国民だけでなく国際社会の誰からも共感を得られない。
にもかかわらず、両国の政権が変わる度に歴史の基準が変わり、事実が覆され、むしろこのような不協和音が市民運動のモチーフとなっている。
最も近い隣国の若者たちが互いに手を取り合い、未来に向かって進むのを妨げることこそ愚かな行為であることを、現在の既得権者や左派追従者の人々は忘れないでほしい。
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