「沢村栄治」「川上哲治」も躍動! かつて東京にはこんなに「プロ野球専用球場」があった

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 現在、東京都内でプロ野球公式戦が行われている球場は、神宮球場と東京ドームの2球場のみだが、その昔、都内にはいくつものプロ野球専用球場があった。しかし、今やそこで実際に観戦したことがあるというファンは少なくなり、ほとんどのファンはその名前を聞いたこともないというかもしれない。

 1936年、日本でプロ野球、当時の呼び方でいえば職業野球が始まったその年、東京に2つのプロ野球専用球場が誕生した。「洲崎球場」と「上井草球場」である。厳密には洲崎球場は10月、上井草球場は8月の開設だから都内最初のプロ野球専用球場は上井草球場ということになる。

 上井草球場は新しく結成された東京セネタースの本拠地として、西武鉄道が杉並区上井草に建設した。西武鉄道は都心から西に向かって路線を延ばしていたこともあり、野球人気に便乗し、沿線住民が球場に足を運ぶことを目論んでの計画だったようだ。両翼は100m、中堅は118.9mあったというからそれなりの規模の球場だったといえるだろう。

 一方、洲崎球場はわずか3カ月という短期間の突貫工事で、現在の江東区新砂に建てられた球場だった。そのころはまだ東京湾の埋め立てが進んでおらず、東京湾に近かったために満潮時にはグラウンドに海水が入り込み、コールドゲームになったこともあるという。現在の感覚でいえば、およそプロの試合で使用するには適さない、何ともお粗末な球場だったというしかない。それでもプロ野球の歴史を振り返った時、上井草球場が忘れられてしまった存在なのに対して、洲崎球場の名は今でも燦然と光り輝いている。

 というのは、ここ洲崎球場では春秋の2シーズン制だった開業年の12月、巨人と大阪タイガース(現在の阪神)の間で初の年度優勝決定戦3連戦が行われ、沢村栄治と景浦将を中心としたタイガース打線が死闘を繰り広げた球場だったからだ。それから80年以上経った今でも巨人阪神戦が「伝統の一戦」と呼ばれるのも、この時の戦いに起因している。また、「打撃の神様」川上哲治(巨人)がプロデビューしたのもここ洲崎球場だった。

 そもそもこの洲崎球場と上井草球場が東京に相次いで誕生したのは職業野球が始まったものの、慢性的な球場不足に悩まれていたからだ。そのため開業年には両球場とも使用されることが多かった。

 ところが翌37年、後楽園球場が完成すると主役はそちらに移り、両球場とも試合数が激減。例えば、洲崎球場では36年の92試合が37年には3試合になってしまったほどだ。

 こうして洲崎球場は43年ごろ、上井草球場は59年に解体され、使命を終えたが、完成から解体までわずか5年と、この2球場以上に短命だったのが今や野球ファンのほとんどが知らない「幻の球場」といわれる「武蔵野グリーンパーク野球場」だ。

 同球場が武蔵野市緑町(当時は西窪)に誕生した51年は、神宮球場が進駐軍に接収されていて使用できなかったこともあり、都内の球場は後楽園だけ。そこで球場不足を補おうというのが新球場建設の大きな目的だった。

 しかし、球場の開設と同時に国鉄(現在のJR)三鷹駅から球場直結の武蔵野競技前駅へつながる武蔵野競技場線が新設されるなどアクセスが考慮され、フィールドのサイズも両翼91.5m、中堅128mと何らも申し分のなかった同球場にはたった1つだけだったが、致命的な欠点があった。それは球場周辺の土壌が水はけのよくない関東ローム層だったために芝が思うように育たず、グラウンドコンディションが極めて悪かったということだ。

 土煙が舞うグラウンドは選手にも観客にも評判がすこぶる悪く、実際に試合で使用されたのは開設初年の16試合だけ。翌52年には神宮球場の接収が解除され、新たに川崎球場が開場したこともあって実質1年で「お役御免」となってしまった。現在その跡地は武蔵野緑町パークタウンという集合住宅となっているが、球場があった面影はどこにも残っていない。

 一方、62年に最新の設備を持った球場として荒川区南千住に華々しく開場したのが「東京スタジアム(東京球場)」だ。当時、巨人、国鉄(現在のヤクルト)、大毎(現在のロッテ)の3球団が後楽園球場を本拠地としており日程の過密化が問題になっていた。そこで、それを解消しようと大毎のオーナーだった大映社長・永田雅一が私財を投げ打って建設、永田自ら「アメリカのどこの球場にも負けない」と自慢する球場だった。

 たしかに、サンフランシスコ・ジャイアンツのキャンドルスティックパークをモデルにしたという同スタジアムは当時としては高照度の1600ルクスの照明塔を持ち、「光の球場」と呼ばれるほどの美しさだった。

 しかし、そのころのプロ野球人気は巨人を中心としたセ・リーグ一辺倒だった。パ・リーグ、中でも大毎は不人気で、開場初年度こそ多くの観客を集めたが、次第に不入りとなって経営が悪化。球団をロッテに移譲するとともに72年、惜しまれつつ閉場となった。現在、その跡地は荒川総合スポーツセンターとなっており、水泳の金メダリスト・北島康介が少年時代、ここのプールで練習していたことで有名である。

 この他、都内には戸塚球場、駒沢球場、芝浦球場などもあったが、最後に現在の東京ドーム、神宮球場についても触れておこう。

 東京ドームは88年3月、日本初の屋根付き球場として後楽園競輪場の跡地にオープンした。試合での本塁打第1号は巨人・阪神オープン戦での吉村禎章(巨人)、公式戦ではダグ・デシンセイ(ヤクルト)が記録。現在年間を通じて野球のみならずコンサートや各種スポーツ、イベントの会場として利用されている。

 神宮球場は26年開場の歴史ある球場。プロ野球の他、東京六大学リーグ、高校野球や社会人野球などのアマチュア野球が行われる球場として長年親しまれており、世界に4つだけ現存する、かのベーブ・ルースがプレーしたことのある球場の1つ(残りの3つはボストンのフェンウェイパーク、シカゴのリグレーフィールド、甲子園球場)としても知られる。明治神宮外苑の再開発計画に伴い2021年に開催される東京オリンピック終了後、新球場の建設が予定されている。

清水一利(しみず・かずとし)
1955年生まれ。フリーライター。PR会社勤務を経て、編集プロダクションを主宰。著書に「『東北のハワイ』は、なぜV字回復したのか スパリゾートハワイアンズの奇跡」(集英社新書)「SOS!500人を救え!~3.11石巻市立病院の5日間」(三一書房)など。

週刊新潮WEB取材班編集

2020年8月9日掲載

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