【特別連載】引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ(11)「昭和維新」胎動の中へ 引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ
1931(昭和6)年9月18日の満州事変勃発から2カ月後。陸軍第八師団(司令部・弘前)の弘前、青森、秋田、山形の各一大隊など500余人からなる混成第四旅団が編成され、内地からの最初の出動部隊として11月18日に朝鮮・釜山に上陸。20日には満州・奉天に到着し守備に就いた。弘前の第三十一連隊が基幹となった同旅団の第二大隊約500名の中に、本連載の主人公・対馬勝雄少尉(当時23歳)がいた。
血気滲む挨拶状
第七中隊の小隊長を任じられて、自らが教育してきた兵士らとの初めての出征に奮い立った勝雄は、国家改造運動の国内での進展を念願し後事を託する内容の挨拶状をしたためた。宛名リストはないが、律儀な勝雄の性格から、同志の青年将校らだけでなく軍内外の理解者と頼む人々に出されたか。
〈現下社會不安は日に深刻にして一面昭和維新斷行の時期も切迫致候折柄後事はよろしく善處下さりたく懇願し奉り候 思ふに維新の發現は天之を我東北の人民に命じたるの感深きものあり 腐敗せる現支配階級と矯正の餘地なき左傾分子とを斷固たる信念により撃滅し以て皇澤を四海に仰がしむべきは我等の使命と存じ候
今回の出兵は私共としては世界第二次大戦の緒動と考へざるを得ざるまま特に国内の維新 眞の国家総動員による大戦の遂行力充實を深く念願するものに御座候 何卒私共の眞意を御賢察下されたく願上候〉
「眞の国家総動員」とは何を指すのか。それは第1次世界大戦をつぶさに分析し、既に国家挙げての「総力戦」体制の構築に邁進していた、時の陸軍省軍事課長・永田鉄山大佐(後に軍務局長、少将)の、
「戦争力化し得べき、一国の人的物的有形無形一切の要素を、統合組織運用し、真固国を挙げての戦争力を」(1927年の講義録『現代国防概論』より)
というような、エリート軍人官僚の冷徹なリアリズムではない。勝雄は満州事変勃発の同年7月15日の日記に、現場の一軍人として国内の現状への憤り、国家改造への焦燥をたたきつけるように記していた。
〈日露ノ役ニハナル程国民奮然一致シテ起ッタ。而モソハ三国干渉後ノ臥薪嘗胆(軍備拡張其他精神的軍備アリ)ノ結果ニシテ当初ノ非戦論者モ今日ノ如キ非国家的ノソレニアラスシテ国ヲ憂ウルタメノ非戦論デアッタ。サレバ一度決然トシテ起ツヤ窮鼠猫ヲカムガ如フ猛烈果敢ニ独露ヲ制シタノデアル。
然ルニコレヲモシ今日行フトセバ如何、第一三国干渉ニ対スル如キ国民一致ノ準備ナク却テ反対ニ国内的ニハ非国家的思潮及諸勢力ノ横流盛ンデアル。カクノ如キ状態ニテ果シテ所謂日本古来ノ国民性ニノミ信倚(注・頼る、の意)して天祐ヲ頼ミ憤激ニ托シテ国民ノ一致ヲ期待シウベキヤ否ヤ〉(対馬勝雄記録集『邦刀遺文』より)
勝雄は、満州事変勃発が父祖たちの日露戦争を勝利に導いたような「国体国民」一体一丸の燃焼をもたらすことを念願し、満州を取り巻く中国やソ連、米英との戦争の危機感をテコに、切歯扼腕していた国内問題を一挙解決する国家改造の秋(とき)到来を期待した。
戦いなき日々の鬱屈
『邦刀遺文』で勝雄が残した満州での日記が始まるのは、混成第四旅団が初めて現地で新年を迎えた1932(昭和7)年1月からだ。その記述の端々に、思いもしない鬱屈の気分が漂う。
〈謹而 両陛下ノ万才ヲ祈ル 又中隊長殿並ニ我小隊士以下ノ武運長久ヲ祈ル 元旦ノ朝暾(注・ちょうとん、朝日の意)ハ広大無辺ニ輝キテ我守備地タルチゝハル城頭ニサシ昇レル。興国ヲ期シテ無為ニ終レル昭和6年ヲ顧ミル時、本年コソハ決断行ヲ誓フモノナリ〉(1月1日)
〈錦州攻撃概ネ終ワル。一段落ナリ。初メ予想セシ如く何時トハナシニ初マリ(ママ)テ激戦トナリ余等ノ参戦ナキ間ニ終レリ。一同ノ遺憾至極ナリ。尤モ国家的ニ見テ賀スベキハ論ナシ〉(1月3日)
〈錦州ニ向カヒシ軍活躍ノ報ヲ聞クニツケテモトリ残サレタル吾人ノ身ガ残念ナリ〉(1月5日)
〈本朝西北々方ニ銃声盛ンナリ。我歩兵十七ニテ近接シ来ル馬軍騎兵隊ヲ撃退セルモノナリ。多数鹵獲品アリシト。馬占山ハ軍閥ニシテ我ニ降伏スル意ナキカニ見ユ〉(1月11日)
日記にある錦州は、満州の南端、遼東湾に面した都市。関東軍に謀殺された張作霖の軍閥を継いだ息子の張学良が、満州事変で奉天が関東軍に占領された後、抗日活動の根城として錦州政権を設けた要地だった。関東軍は参謀・石原莞爾中佐の指揮で錦州爆撃を行い、1932年正月までに無血状態で占領した。
勝雄ら混成第四旅団は前年11月の奉天到着後、情勢不穏の錦州へ出動の指令がいったん出されながら、英米仏3国の介入などの影響で奉天に引き戻された。
その後、満州北部の軍閥首魁・馬占山の黒竜江軍を関東軍(満州駐屯の第二師団)が駆逐した直後のチチハルに進駐し、警備の任を負った。以後、出撃の機会は「匪賊」との小戦闘にとどまった。
勝雄らの奉天到着の翌11月21日、内地の新聞各紙は第二師団のチチハル進撃を華々しく伝えていた。例えば『東京朝日新聞』の第二号外の1面を埋めた見出しはこうだった。
〈激闘二十六時間、零下三十度の極寒地に言語を絶する本社特派員決死的活躍!〉
〈午前三時!戦端開く! 弾雨中線路傳ひに進む〉
〈運命を決した我が大攻撃!〉
〈十字火の砲撃戦〉
〈『日露役以来の壮烈な白兵戦』多門中将も驚く〉
〈支那軍死傷約一千〉
1931年から満州に駐屯していた第二師団(司令部・仙台)は、満州事変の初動から関東軍の主力を担い、奉天、チチハル、その後のハルピンの攻略に続いて錦州占領の栄誉にも浴した。2年後の仙台凱旋時には、今に伝承されるほど熱烈な祝賀の歓迎を受け、メーンストリートの南町通は師団長・多門二郎中将の名を冠して「多門通」と改称されたほどだった。
同じ東北の師団の活躍を遠く眺めるほかなかった混成第四旅団の当時の空気について、『歩兵第三十一聯隊史』(歩三一岩手会聯隊史編纂委員会)もこう記録する。
〈斉斉哈爾(注・チチハル)警備間亜里新屯其の他三、四回匪賊討伐をしたが、戦闘上特記すべきことはなかった。又二月初旬の第二師団のハルピン攻撃にも関東軍出動命令を受けたが、色々の事情で之も不可能となり、将兵一同脾肉の嘆に堪へなかった〉
「最も急進的なる革命家」
1932年1月8日、東京で「桜田門事件」が起きた。昭和天皇が陸軍始観兵式に行幸した帰路、御料馬車の車列に沿道から爆弾が投げつけられたが、天皇御座の馬車は無事だった。朝鮮の抗日武装組織の指令を受けた李奉昌が、その場で取り押さえられた(10月に大逆罪で処刑)。犬養毅首相ら内閣は総辞職の裁可を天皇に仰ぐ事態となったが、結局は留任した。
時の陸軍大臣は、青年将校たちから国家改造運動の擁護者と仰がれた荒木貞夫中将(皇道派と称された)だった。事件を満州で聞いた勝雄らは、「チゝハル青年将校有志一同」の名で「荒木陸相留任方懇請」を打電しようとしたが、大隊の上官によって抑えられた。勝雄の日記の記述には、内地を遠く離れて、かつ組織の軍人ゆえに行動できぬ不自由さへの葛藤も加わった。
〈内外愈々多事ナルトキチゝハル附近ニハ却ッテ何事モナシ。辞職シテ国内ノ突撃ニ後レサランコト乃、三、榊、泥、阿季、瀬等にカク〉(1月12日)
〈余ノ信念ハ軍人ナルガ故ニ使命重大ナリトスルニアリタリシガ熟ゝ従来ノ経過ヲ考フルニソノ信念ノ実行ハ軍人ナルガ故ニ愈々困難ナル実情デアル。軍人ヲヤメルカ否カ、ソレハ「皇国ノタメ」トイフ、無私ノ信念ニ照ラシテ自ラ定マルベキデアル〉(1月13日)
勝雄の人生そのものである「軍人ヲヤメルカ否カ」と賭するほどの悩みとは何か、満州の地から焦燥する「国内ノ突撃」とは何なのか。日記には、満州の屯営に伝わった次のような出来事の記述が続く。
〈藤井斉海軍大尉戦死(於上海) 深ク英霊ヲ祈リ、我等ハ氏ノ志ヲツイデ故人ニ恥ザラントス〉(2月5日)
浜口雄幸内閣の締結したロンドン海軍軍縮条約に反対し、「国家滅亡の行動」と攻撃する『憂国概言』(1930年4月)を配布した藤井斉(連載10回『分かれ道の兄妹』参照)は、海軍の急進派将校を糾合した「王師会」の結成者で、国家改造運動のリーダーの1人だった。
特権階級なき社稷(郷団)自治と、それを実現させたという大化の改新を理想と説いた思想家・権藤成卿を信奉した藤井は、プロシア流官僚主義と利権政党、財閥の支配と農村収奪という明治政府以来の国家の現実を「第二維新」の実力行動によって変革する志を燃やした。
勝雄は、陸海軍の青年将校と民間運動家が大同団結を目指した会合「郷詩会」(1931年8月26日)で、弘前から参加して藤井ら海軍側の同志を知り、藤井の日記(『検察秘録 五・一五事件』所収)にも、以下のように勝雄の名が記される。
〈午後、外苑日本青年会館に郷詩社の名にて会合あり。海の一統、陸の一統―大岸君の東北、その他は九州代表の東来れるのみ 井氏の一統、菅波、野田、橘孝三郎、古賀潔、高橋北雄、澁川善助、初対面は對馬、高橋と秋田聯隊の少尉金子伸孝と四人なり
こゝに組織を造り中央本部は代々木に置き、西田氏之に当り、井氏を助け遊撃隊として井氏の一統はあたることゝせり こゝに最も急進的なる革命家の一団三十余名の団結はなれり 新宿に行きて酒を飲みつゝ一同歓談し、その中に胸襟を叩き割って相結べり 野田又宅に黒澤、菱沼、古賀(清)と東と行って泊まる〉
「大岸」「菅波」は陸軍の青年将校の思想的指導者で、勝雄を感化した大岸頼好中尉(連載第8回「昭和4年 運命の出会い」参照)と、菅波三郎中尉。「澁(渋)川善助」は会津出身で陸軍士官学校中退組、「西田(税)」は元陸軍将校の運動家。「井氏の一統」とは、元満州浪人で日蓮宗僧侶の井上日召と、茨城県大洗の井上の道場で学ぶ菱沼五郎、黒澤大二。橘孝三郎は、水戸市近郊に兄弟村農場を興し、若い農民育成の「愛郷塾」を開いていた。「古賀」は、藤井の最も密接な同志、古賀清志海軍中尉。
立場や派閥、思想系譜は異なるが、いずれも「昭和維新」と号される国家改造運動渦中の革命謀議でつながろうとする人々で、勝雄もこの日から「最も急進的なる革命家」に加わる1人と数えられるようになる。
藤井斉の決意と死
郷詩会の翌日8月27日の藤井の日記にも、勝雄が登場する。それによると、赴任先の九州・大村海軍航空隊から参加した藤井が、親しい井上日召の家(代々木上原の権藤成卿宅の借家)に帰ると、そこへ勝雄がガリ版刷りを持ち込んできた。
「全艦隊に送るべく宛名を書き終えた」
という。よく見ると、「陸海軍青年将校一同」と書かれている。「満蒙問題に就て陸海軍合同すべし」と呼び掛ける文書で、藤井は、
「これはいかぬ、早速止めさせろ」
と青山参道アパート(同潤会青山アパート)の菅波三郎宅に集っていた勝雄の仲間たちを説いて、止めることにしたという。
藤井はこの日午後、海軍の同志である古賀、三上卓海軍中尉、井上らと共に霞ケ浦海軍航空隊の小林省三郎司令を訪ねて「革命」への決意を問い、さらに参謀本部ロシア班長の橋本欣五郎中佐、国家主義者で右翼思想家の大川周明らと会う約束をし、「本年秋の義挙」について詳しく調べ知らせる約束をしたという。長い1日の記述日の最後に次の言葉がある。
〈我等はそれに代わって之を拡大―深刻化し指導して我等の革命になさんとするものなるが故なり、斯くて陸海軍の合同はなるべし〉
橋本は陸軍中枢の急進派佐官らのグループ「桜会」の首魁で、この1931年、宇垣一成陸相(当時)ら軍上層部に働きかけ、大川周明や右翼活動家らと組んで「三月事件」と呼ばれる政権奪取のクーデター未遂事件を起こしていた。
「本年秋の義挙」とは、橋本らが進めていた2度目の大掛かりなクーデターの企てのことと思われるが、10月に発覚し再び未遂に終わり、「十月事件」として名のみ知られることになる。藤井は8月27日の日記で、
〈陸軍はどうも政治革命迄しか考え居らざる様子、先ず一辺やらせよ、而る後之を叩きつぶすは我任なり、恐らくは革命の本体なるべし〉
と陸軍側に信を置かず、政権奪取とは違う直接行動の蹶起策をこの時点で練りつつあった。
それゆえであろう、勝雄が持ち込んだ満蒙問題の呼び掛け文書を中止させたのも、大事の前に海軍側の名前が漏れるのを危惧したためではないか、と思われる。藤井の懐深く怜悧な戦略家の面影と、東京で「昭和維新」への交わりに心躍らせる勝雄の、しかし革命家にはなれぬ純情さが見えてくる。
郷詩会や翌8月27日に集った青年将校の中に、勝雄と親しい末松太平中尉もいた。このころ青森の第五連隊から東京の陸軍戸山学校(歩兵戦技や体育などの専門学校)に派遣されていた。郷詩会を機に、西田税の自宅を連絡場所として、陸海軍有志や井上日召グループが毎晩のように顔を合わせたという。戦後の著書『私の昭和史』(みすず書房)にこうある。
〈会えば語り合い、語り合えばそこに何物かが胎動した。それは「郷詩会」を単なる組織固めに終わらせたくなかった、海軍のペースに乗ったものだった〉
〈実行計画が自然に話し合われるようになるのも当然の成行である〉
〈井上日召はよく暗殺の要領を伝授していた。「みな殺人鬼じゃないんだから――それどころか、人一倍物心を持っているんだから、殺すと決めたら、もんもいわず拳銃を発射しなければ失敗する。話をかわしたら、なかなか懐の拳銃に手がかからないものだ」〉
血の匂いのする「昭和維新」は胎動のさなかだった。勝雄も休暇や所用を言い訳にして連隊から遠路、同志たちのサークルに参加していたのは疑いない。
〈いまになって考えますと、革新将校の集まりがあって弘前から上京したのではなかったかと思います〉
という妹たまさんの「記憶のノート」からの証言も紹介した(連載第10回『分かれ道の兄妹』2020年5月30日参照)。
「昭和維新斷行の時期も切迫致候折柄後事はよろしく善處下さりたく懇願し奉り候」
と、満州に出征した勝雄が後ろ髪を引かれるように挨拶状に書いた理由も得心できよう。それゆえ、中心人物である「藤井斉、上海で戦死」の報はあまりに衝撃的だった。
燃えだしたテロの季節
上海事変は、1932年1月28日に勃発した。
反日集会や日本商品排斥の活動を強めていた上海の住民と日本の在留民が衝突し、日本人僧侶への暴行事件と居留民側の応酬が事態に油を注ぎ、さらに抗日義勇軍の旗揚げ、日本から出動した海軍の陸戦隊と中国の精鋭・十九路軍のにらみ合いから、とうとう両軍の市街戦にエスカレートした(注・戦後、日本人僧侶の事件が実は満州事変から国際的な関心をそらすため、板垣征四郎関東軍高級参謀が上海公使館駐在陸軍武官補佐官の田中隆吉少佐に依頼した謀略だった、と明らかになっている)。
海軍の上海への派遣艦隊には空母「加賀」がおり、乗り組んでいた藤井斉(当時は大尉)は2月5日、偵察飛行中に撃墜された。残した日記には最後まで「革命」の文字がある。
〈藤井斉海軍大尉戦死(於上海)深ク英霊ヲ祈リ、我等ハ氏ノ志ヲツイデ故人ニ恥ザラントス〉
という勝雄の想念を真っ先に体現したのは、井上日召のグループだった。勝雄の驚きはわずか4日後、2月9日の日記の短い1文に表された。
〈井上準之助殺サル。〉
満州で聞いた、後にいう「血盟団事件」の報だった。
井上準之助は2年前の1930(昭和5年)11月14日、ロンドン軍縮条約に憤る右翼青年に狙撃された浜口雄幸首相(民政党・翌年8月死亡)の盟友で、第1次大戦後の経済再生のため「金解禁」を推し進めた蔵相だ。
当時のグローバルスタンダードだった金本位制に復帰し、円高政策による脆弱企業淘汰と日本経済の競争力強化、軍事費を含む緊縮財政の道を採り、国民に、
「人は伸びんとすれば先づ縮む。今日の節約緊縮は将来の為」
と改革の痛みへの忍耐を求めた。だが、折悪しく世界恐慌が日本を呑み込み、都会も農村も未曽有の苦境に沈む。国難の元凶であると、井上は狙われた。
下野した民政党の選挙応援で、井上は東京・本郷区の駒本小学校に降りた直後に背後から3発撃たれた。
取り押さえられたのは茨城県出身の小沼正。凶器は、井上日召が藤井斉ら海軍将校から受け取り、弟子の青年たちに「一人一殺」の政財界要人暗殺を命じて与えた拳銃のうちの1丁だった。
3月5日には三井財閥総帥の団琢磨が殺された。三井銀行が経済混乱のさなか円相場下落を見越し大量のドル買いをしたことが、「一夜で巨利を得る売国行為」と財閥糾弾の世論を招いた。銃弾を発したのは菱沼五郎、やはり日召の使徒だった。
有名な〈男子の本懐〉のほか、〈およそ政治ほど真剣なものはない。命がけでやるべきものである〉と語り、銃弾が残る体の痛みを押して国会に登壇した浜口雄幸。その浜口から蔵相就任を求められて〈一命を賭す〉と約し、財産目録を書き出し妻に事後を託したという井上準之助。
「あの頃の政治家は、いつでも国に殉じ、腹を切る覚悟でした」
と、勝雄の妹たまさん(昨年6月、104歳で他界)の取材で筆者はよく聞かされた。
結果責任を問われる立場はいつも時代も変わらないが、同じく国に命を捧げる者を「殺す側」の論理はどう正当化されるのか。「昭和維新」胎動の中に身を投じた勝雄に、その葛藤は見えない。3月28日の日記には〈暗殺団十数名起訴カ〉と新聞の読後評があり、次のように続く。
〈彼等は昭和維新の志士ナリ。何ゾ他ニ呼応シテ起ツ士の少キヤ。百ノ慰問袋ヨリモ何程有リガタイカ分カラズ。モット殺シテカラ掴マレバヨカッタ。
井上日召ハ部下ヲカバヒ罪ワ一身ニ引受ケントシタル由、偉ナリ。他ノ団結マタ真ニ固ク美シ。余ハ死ストモ暗殺団ヲ守リタシ〉
五・一五事件の衝撃
勝雄が記録した『對馬勝雄満州事変従軍行動概要』(『邦刀遺文』所収)によれば、満州着任以来、「匪賊」との3度の小戦闘しかなかった北満のチチハル駐屯を経て、混成第四旅団にようやく新しい任務が下された。張学良の抗日拠点であった錦州への出動である。『歩兵第三十一聯隊史』は将兵の様子をこう記す。
〈チチハルに於て警備すること四ヶ月、武運拙きを恨んで居た。突然、三月十七日朝二時、大隊は出動命令を受けた。南満荘河県(関東州=注・遼東半島先端=の隣県)の治安維持を以って、直ちに出発することとなった。懐かしいチチハルを午前十時多数官民の見送りを受け、発車した。大隊将兵の眉字には、輝かしい未来と、来たらんとする戦に天晴れ武勲を立てんとの決心の色が閃いていた〉
広大な満州での移動は鉄道各線がフルに利用された。勝雄らはチチハルから新京(同年3月1日の満州国建国後、首都として長春から改称)、奉天(現・瀋陽)を経て南下を続け、大連の手前の関東州・金州で乗り換えて、城子疃という終着駅の小さな町に降り、出動先の荘河に進軍した。やはり現場の軍人である。勝雄の打って変わった颯爽たる気分が、青森の実家の父、嘉七さんに宛てた手紙(3月23日付)にあふれる。
〈匪賊は初め城子疃のすぐ西方まで来てゐましたが逐次北方方面へ逃げた様であります。荘河人口一万五千にて海岸に近く、海賊と馬賊の巣窟でありました。こゝに向かって自動車で前進した有様は實に勇ましくありました。(中略)そこから私は半ヶ小隊と機関銃隊一ヶ分隊を率ひ自動車二台で斥候となり大隊に先行しました。途中匪賊やら避難民やらどん/\北方に逃げるのを見ましたが一発も攻撃せず午後三時すぎ荘河近くに進出しました〉
〈此の付近は我第二軍(注・奥保鞏大将)が日露の役に上陸した海岸にて その昔を思ふ浮かべて多少の感慨なきを得ませんでした〉
その後、4月6日まで計5回の戦闘が『従軍行動概要』に記録され、いずれも「敵匪」を「潰滅ス」「潰走四散セシム」「潰亂セシム」「潰走セシム」と文字も踊るような戦果を得た。
現地の治安維持の任を果たした勝雄らは4月22日、一度は参戦がかなわなかった錦州に入った。弘前から大勢の新兵たちを引き連れて到着していた第三十一連隊の本隊と合流し、新編成の下で錦州警備に就いた。
人口5、6万の遼西地方の中心地で日本人、朝鮮人が約300人在住しており、ここでも匪賊との戦闘が始まったが、勝雄は、
〈気候目下温暖、高粱(コウリャン)の播種終り芽が出初(ママ)めました。便衣隊(注・ゲリラ)の比較的出没せずこれ第八師団の軍隊に油断なきためであります〉
と、父への5月12日付の手紙に書いた。
しかし、その3日後、内地で起きた大事件が勝雄を再び「昭和維新」へと引き戻す。
〈東京ニ於テ陸海軍青年将校士官学校生徒其他騒擾アリ。犬養(注・毅)首相ハ死去ス(十五日夕五時半頃)壮挙ノ報伝ハリテ手ノ舞ヒ足ノフム所ヲ知ラズ〉
起きたのは、戦死した藤井斉の遺志を託された海軍将校らによる「五・一五事件」で、勝雄は料亭で仲間の将校らと祝杯を挙げたと翌5月16日の日記につづった。だが、内心は違っていた。
後から伝わった詳報には、犬養首相を拳銃で襲った海軍の三上卓中尉、山岸宏中尉、黒岩勇予備少尉、村山格之少尉らの顔触れと共に、11人の陸軍士官学校本科生が参加していたとあり、その中に、第三十一連隊で勝雄と縁を結んだ弘前出身の野村三郎がいた。
満州と内地の間の焦燥
野村は犬養首相殺害実行の現場に居合わせ、8月に行われた陸軍軍法会議の事実審理で国家問題に関心を持つに至った経緯を法務官から問われて、
〈昭和六年八月であります。休暇中同聯隊の将校である對馬中尉殿(当時は少尉でありました)から国家の現状に付て少し承りました〉〈(注・国家革新に)同意を致しました〉
と答えた(『検察秘録 五・一五事件』より)。
勝雄はすでに憲兵が実家にも立ち寄るような「要注意人物」で、五・一五事件関係者の取り調べでも、4年後の二・二六事件に連座する陸軍の村中孝次中尉、安藤輝三中尉、香田清貞中尉、栗原安秀少尉、末松太平中尉らと共に証拠資料に秘かにリストアップされた。
しかし、勝雄の関心はそんなところにはなかった。同じく混成第四旅団の将校として満州にいた末松中尉が後に、当時の思いつめた勝雄の行動を『私の昭和史』に書き留めている。
〈このあとすぐ、錦州から対馬勝雄中尉(この時は少尉)が興城にやってきて、一緒に内地に潜行しようと、しつこくさそった。自分の連隊から、野村候補生がこの事件に参加しているのだし、対馬中尉の気持はわかりすぎるほどわかっていた〉
〈とっさに考えついたことは、早速全満の同志によびかけ、減刑歎願の署名と、差入れの金を募る運動をおこし、それによって五・一五事件の意義の闡明(せんめい)をすることだった。
これで対馬は渋々ながら錦州に帰っていった〉
激しく心揺れる勝雄を、いよいよ満州での激戦が巻き込んでゆく。(つづく)