照ノ富士、“不死鳥”の優勝を支えたのは、白鵬から受けた12年前の仕打ち

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白鵬は畏怖すべき存在でも大横綱でも何でもない

 東前頭17枚目照ノ富士(28=伊勢ケ濱)が、30場所ぶり2度目の優勝を果たした。初優勝は2015年の夏場所にさかのぼり、初土俵から所要25場所でのスピード達成。その場所後には大関昇進を決め、綱取りを意識する立場となったものの……。昇進後は両膝のケガ、糖尿病、肝炎がカラダを襲い、大関陥落。番付はじりじりと下がっていく。5場所連続休場して迎えた19年春場所、西序二段48枚目で本場所に復帰した。そこからわずか1年半での幕内優勝は記録ずくめで神がかっているとしかたとえようがないのだが、あるいは白鵬から12年前に受けた仕打ちがこの奇跡を支えたのかもしれない。

(※週刊新潮2015年5月21日号を再編集したものです)

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 照ノ富士は本名・ガントルガ・ガンエルデネ。1991年11月29日、モンゴル・ウランバートルに生まれ。18歳で逸ノ城らと共に鳥取城北高へ相撲留学した。3年時に中退して間垣部屋に入門。13年春場所後に伊勢ケ濱部屋に転籍し、同年秋が新十両昇進で「照ノ富士」に改名した。

 モンゴル出身力士は平成から令和にかけて大相撲を牛耳った一大勢力であり、そのピラミッドの頂点に立つのが白鵬である。

「同じモンゴル出身とは言っても、照ノ富士にとって白鵬は畏怖すべき存在でも大横綱でも何でもない。むしろ怒りの対象であり、それが躍進の原動力となってきたのです」

 そう明かすのは、照ノ富士を少年時代から知り、モンゴル国内に人脈を持つある関係者だ。

「私がガンエルデネ君(照ノ富士の名)に初めて会ったのは2006年。彼はまだ15歳でしたが、当時から“日本で相撲を取りたい”と言っていました。白鵬の父親のムンフバトさんとも親しかった私は、“息子(白鵬)に言って、部屋に入れてやってくれないか”と頼んでいたのです」

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