法律を時代に合った形に作り変える――金丸恭文(フューチャー会長兼社長 グループCEO)【佐藤優の頂上対決】
技術革新とともに
金丸 1970年代の後半くらいに、私たち20代の若者は、技術革新の息吹となるマイクロプロセッサ(基本的な演算処理を行う半導体チップ)に出会うわけです。それまで大会社しか手に入らなかったコンピュータが、マイコン(マイクロコンピュータ)として秋葉原で簡単に買えるようになった。今から見たら足りないものだらけです。でも、足りないところは自分の創意工夫で作る。するとそこにマーケットができてくる。そんな人たちが世界中にいて、これがあったら喜ぶだろうなというものを作りながら、世界同時進行で技術革新が起こっていったんです。
佐藤 中心がないかたちで技術革新が行われていったんですね。
金丸 ええ、中央集権的ではなく、世界中の無名の若者たちがどんどん技術革新を無意識に起こしていった。日本経済はずっと落ちていきますが、それとは関係なく、若いエンジニアたちが夢中で開発を続けた結果、コンピュータは世の中を変える。彼らのイノベーションの積み重ねが、それまでコンピュータ業界の頂点にあったIBMから力を奪い、大きな社会変革をもたらしました。
佐藤 やがてその中からインターネットが出てくる。
金丸 まだみんながインターネットの可能性に気がついていない時、私は世界に先駆けて最初にfutureというドメインを取りましたよ。
佐藤 そこから現在のIoTやAIのビジネスにどんどん発展していったわけですね。
金丸 その只中にいて思ったのは、日本は目に見えないものに弱いということです。目に見えるものを分解して真似るのは得意だし、それをベースにちょっとプラスアルファして使いやすくすることも上手です。でも目に見えないものにうまく対応できない。日本社会全体の危機は、ソフトウエアに向き合えていないことです。ソフトウエアが主流の時代になっているのに、日本のリーダー層はどうしていいのかわからない。わかる人を引き上げて、その人に任せればいいのですが、彼らはたいてい若い人だから、年功序列の社会では組織がもたないと言って、それもやらないわけです。
佐藤 この一点をとっても、旧態依然とした年功序列や一斉採用は障害になりますね。
金丸 ソフトウエアの開発者たちは、働き方も全然違いますよ。起業前の会社で16ビットパソコン開発のリーダーをしていた時、そのパソコンにソフトウエアを載せてもらうため、ニューヨークにある取引先の大企業を訪ねたところ、幹部がいまからすぐベンチャー企業のソフト開発者に支援を頼みに行こうと言う。それがシアトルだったんですよ。
佐藤 アメリカ大陸横断ですね。
金丸 しかもシアトルの空港から3時間もドライブした山奥にオフィスがありました。そこはわずか5人の会社で、全員がPh.D.(博士号)を持っている。事務所に着くと、一人は釣りに行っているというんですよ。聞けば今日の夕食のトラウトを釣っているという。
佐藤 鱒ですね。
金丸 ええ。このシーズン、ここのトラウトが一番美味しいから、オフィスをここに置いているというんです。そして来月は森林浴ができるアトランタに事務所を移し、冬には雪質のいいソルトレークで仕事をする――と、春夏秋冬で年4回オフィスを替える。当時はまだ通信速度が遅くて、テキストベースのファイルを送るのがやっとの時代ですが、実質リモートワークです。そこへ大企業の幹部が何時間もかけて出向く。これが1983年の出来事です。日本はこういう社会にはならないと思いました。だからハードでは勝てても、ソフトでは劣後すると思い知らされました。
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