大谷翔平「逆方向ホームラン」誕生の意外なきっかけ 恩師が回顧するリトル時代(小林信也)

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日本一になっていない

 私は、浅利さんから聞いた大谷少年の成長物語を『大谷翔平「二刀流」の軌跡(ルーツ)』(マガジンランド刊)という本にまとめた。この本を書いたのは、私自身の指導経験が深く影響している。2008年から約10年間、つい2年前の春まで私は少年野球のコーチを経て、シニア(中学硬式野球)の監督を務めていた。全国的に有名な調布シニア、武蔵府中シニアなどがひしめく地域で何人もの「天才」「大器」と呼ばれる選手に会った。その中にはいま北海道日本ハムにいる清宮幸太郎選手や郡拓也捕手がいる。しかし彼らの大半はまだ大学生の年代なのに当時の輝きをなくし、くすぶっている。半分はグラウンドから遠ざかっている。その現実に私自身が傷つき、才能を順調に伸ばす難しさにもがき苦しんだ。

 それだけに、少年時代から周囲の期待を集めた大谷翔平が成長の階段をどう昇ったのか、稀有な成功例に学びたいと強く願った。

 その秘密の一端は、「翔平は一度も日本一になっていないんですよね」という浅利の言葉に垣間見える。

「リトルでもシニアでも花巻東でも、全国大会には出たけれど、案外あっさり負けている。高校時代だって、足の怪我で1年くらい投げていない。それがかえって良かったんだ」

 もう一つ印象的な逸話がある。翔平が左打者に転向した小学校3年の秋のこと。岩手県大会準決勝、1点を追う最終回の裏。走者を1人置いて翔平が打席に入った。翔平は65メートルのライトフェンスを越えるホームランを打った。サヨナラ2ラン。劇的な一打に、ベンチも応援の父母も大喜びの輪ができた。しかし、主審は冷酷に「打者アウト」を宣告、1点差のまま敗戦に終わった。

「右足が打席から出ていた」との判定だった。抗議したが覆らなかった。翔平もベンチの仲間もみんな泣いた。始まりがそんな出来事。翔平少年は慢心どころか、なかなか満たされることなく、階段を昇り続けたのだ。

小林信也(こばやし・のぶや)
1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。「ナンバー」編集部等を経て独立。『長島茂雄 夢をかなえたホームラン』『高校野球が危ない!』など著書多数。

週刊新潮 2020年7月23日号掲載

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