「石原軍団」解散の裏側 渡哲也は存続に反対、今後は版権管理が中心に

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 株式会社石原プロモーションが来年1月に解散し、所属俳優のマネジメント業務を終了することを発表した。昭和、平成を彩る数々のエピソードを残した「石原軍団」解散までの道程に迫る。

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 無論、石原裕次郎が芸能界に大きな足跡を残した不世出のスターであることに疑問を差し挟む余地はないが、彼を伝説めいた存在たらしめている理由の一つは、晩年の凄まじい闘病にあるのではないか。「生還率3%」と言われた解離性大動脈瘤を奇跡的に克服したものの、ほどなくして肝臓がんが発覚。入退院やハワイでの静養を繰り返しながら「太陽にほえろ!」や「西部警察」などのテレビドラマの撮影やレコーディングの仕事を続けた裕次郎。不帰の人となったのはがんが発見された3年後、1987年7月17日のことだった。

盟友が語る裕次郎の凄さ

 そんな裕次郎の晩年の姿を間近で見続けた人物がいる。映画「黒部の太陽」や「栄光への5000キロ」などの撮影監督を務め、裕次郎から「満(まん)ちゃん」と呼ばれた金宇満司(かなうみつじ)氏(87)だ。裕次郎が設立して自ら社長に就任した「石原プロモーション」の役員を務めたこともある同氏について、石原プロ関係者はこう語る。

「裕次郎さんは周囲の多くの人に支えられましたが、金宇さんの『裕次郎愛』は別格。裕次郎さんが大動脈瘤で緊急入院すると映画を撮影するためのカメラを置いて裕次郎さんと寝食を共にして身の回りの世話に専念。裕次郎さんのがんが悪化してからは、金宇さんが献身的に介護していました」

 金宇氏の著書『社長、命(いのち)。』にはこうある。

〈社長に仕えることによって、キャメラを置いて家族と離れて暮らすことになりましたが、わが人生に悔いはありません。なによりも社長は、私の命でありました〉

 金宇氏本人が言う。

「普通の役者にはないものを持っているから裕次郎ってのはカメラを回していて楽しかったんだよ。普通の役者は一生懸命勉強して教科書通りの演技をするんだけど、裕さんってのはそうじゃないからね。自然体なんだよ。カメラを回せばそこに石原裕次郎がいるの。俺も記録映画の出だからそれが魅力だった」

 裕次郎に人生を捧げた理由については、

「あの人は俺じゃないとダメなんだよ。座薬を入れるのだって奥さんより俺がやった方がいいだろう」

 と、多くを語らないものの、今も「裕次郎愛」は不変のようで、

「ずっと一緒にやってきたから。部屋に裕さんの写真を飾っているから朝晩話してるよ。一緒に酒飲んだりしながら『すぐそっちに俺も行くから待ってて』なんて言ってるよ」

 金宇氏は先の著書の中で石原プロについて次のように書いている。

〈社長亡きあと、石原プロをどうするかという問題が残った。「満ちゃん、これで会社は終わりだ」と専務が言った。私もそれに異存はない。専務も、渡さんも、私も、石原プロに就職したのではなく、石原裕次郎さんに惚れてついて行った先が、たまたま石原プロだったのだ〉

 ここに登場する「専務」とは「コマサ」の呼び名で知られた小林正彦氏のこと。「渡さん」とは、裕次郎亡き後石原プロの社長に就任した俳優の渡哲也のことである。ちなみにコマサ氏は、長らく石原プロの番頭を務めたが、2011年に専務を退任し、業界から引退。その背景には、テレ朝の女性プロデューサーとの癒着問題の発覚があった。

「元々裕次郎さんは『自分が死んだら石原プロを閉じろ』との遺言を残していたと言われており、渡さんをはじめとする『石原軍団』のメンバーにも、“なるべく早く会社を畳むべきだ”との考えを持つ人が多かった」(先の石原プロ関係者)

渡哲也は事務所存続に反対だった

 にもかかわらず、裕次郎の死後三十余年が経った今も石原プロが存続している背景には、まき子夫人(87)の存在があるという。

「石原プロを続けていれば、裕ママ、つまりまき子夫人を食わせることができる。石原プロの面々は、裕次郎さんを中心に集まり、裕次郎さんに仕えてきたという思いが強い。そのため、裕次郎さん亡き後は、石原プロのメンバーで未亡人となったまき子夫人を支えるべし、との考えが強かったのです。それを受けて彼女も会社を閉じたくないと考えるようになった」(石原家のことを知る芸能界関係者)

 その一方、

「渡さんは石原プロ解散に向けた準備を早く進めるべきだという考えをこの十数年ずっと持ってきました。さらに、最近は渡さん自身が体調を崩し、会社の手仕舞支度を一層強く意識するようになった」(同)

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