病気は社会の弱い部分を攻めてくる――中原英臣(新渡戸文化短期大学名誉学長)【佐藤優の頂上対決】
「42万人死亡説」「人と人との接触8割減」といったセンセーショナルな言葉が飛び交い、現実離れした「新しい生活様式」が提案させる一方、医療崩壊の危機が散々喧伝されたコロナの日々。果たしてそれらは実情に見合ったものだったのか。コロナ禍の本質と教訓を喝破する――。
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佐藤 まだ油断はできませんが、ようやく新型コロナウイルスの感染拡大が落ち着いてきました。私がこの災厄のなかで実感したのは、専門家の不確かな見解が世の中を変えていく怖さでした。
中原 今回、登場してきた専門家と言われる人たちを、私は専門家とは見なせないですね。みんな元データを示さずに、ああなる、こうなる、と結果だけ言っている。その最たるものが42万人死亡説ですよ。
佐藤 4月15日に厚労省クラスター対策班の西浦博・北海道大学教授が発表して、大きな話題になりました。でも、42万人死亡は、実際に生じるような事態ではなく、中原先生が指摘されているように、国民に対し、一種の「脅迫」としてしか作用しなかったと思います。
中原 計算式があるのだから、数字を入れれば、答えは出てくるでしょう。でも本当にそうなのか。そこに入れる数字、元データはどんなものなのか、それは信用に足るものなのか、そのあたりがさっぱりわからないまま独り歩きしました。
佐藤 どのデータを使って、どういう計算式で分析しているかは、しっかり説明する必要がありますよね。
中原 人と人の接触を8割減らせば、15日で新規感染者が減り、1カ月後に効果が確認できるという話も、8割って何なのか、と思いましたね。回数の問題なのか。でも、時間や距離だって関係してくるでしょう。
佐藤 要するに、みんな外に出ないでくださいという意味でしょうね。
中原 全員外に出るな、ということならわかります。ロックダウンを欧米各国がやったわけですから。でも8割というのは、どう生活していいのか、わかりませんよ。
佐藤 元行政官の立場からすると、日本でロックダウンなどの法的な措置を取らないのは、よくわかります。「公共の福祉」のために移動を制限することはできますが、憲法22条の「移転の自由」の中には「移動」も入っている。だから、移動を制限する法律を作れば、必ず違憲訴訟を起こしてくる人がいます。その訴訟対応に力も時間も割きたくないわけです。しかも、裁判所がどんな判断をするか、わかりませんから。
中原 そういう面はあるでしょうね。
佐藤 もう一つ、日本には「天子」の行動を自発的に支える翼賛の伝統があります。この同調圧力に訴えれば、法的措置とほぼ同じような効果が期待できます。その際、シンボリックな数字として、国民がびっくりするくらいの数字を出さなくてはいけない。それが42万人死亡と8割なのでしょう。
中原 でも大正時代のスペイン風邪の時だって、日本の死者は約39万人です。当時は、国民皆保険もなければ、ウイルスの知識もない。インフルエンザウイルスの存在が明らかになったのはそれから10年くらい後です。だからどうなったら、42万人も亡くなるのか、と驚きました。
佐藤 太平洋戦争で日本の陸海空軍将兵の死者が約230万人で、民間人の死者は広島、長崎、沖縄戦、東京大空襲などを合わせて約80万人です。その半分以上というのは、どんな事態なのか、そこが皮膚感覚でわかっていないんですね。直観的におかしいと思わないといけない。
中原 それをテレビが検証もせずにどんどん煽った。それで日本全体がすくみ上がってしまった。
佐藤 私はドイツ、フランクフルト学派のユルゲン・ハーバーマスの言葉を思い出しました。『後期資本主義における正統化の問題』という難しい本の中に「順応気構え」という概念が出てきます。いまの時代は教育水準が上がり、情報も大量にある。だから個人でそれらを一つ一つ検証していくことはできるけれど、そうはしない。なぜかといえば、そのためには多くの時間とエネルギーが必要となり、疲れ切ってしまうからです。だから自分がすぐ理解できないことには、誰かが説明し、説得してくれるという「順応気構え」が生まれてくる。
中原 なるほど、その誰かが専門家であり、テレビですね。
佐藤 コメンテーターだけでなく、専門家会議のメンバーもよくワイドショーで発言していました。こうした権威による説得をみんなが簡単に受け入れてしまい、それで不安になったり、納得したりする。
中原 日本にとって不幸だったのは、東京オリンピックの年だったことです。オリンピックは何が何でもやりたかったわけでしょう。
佐藤 オリンピックを準備している人たちの間では、正常性バイアスが働きます。こちらは、大丈夫じゃないかという希望的観測が強くなって、社会全体としてはますます混乱していく。
中原 結局、感染症対策としては、マスク2枚です。10万円の特別定額給付金は経済対策ですから。
佐藤 それと学校を閉じました。
中原 あれはほとんど意味のないことです。日本では30代以下の人は3人しか亡くなっていない。28歳で死亡した力士・勝武士さんは糖尿病の基礎疾患を抱えていました。あとの30代の2人は詳細なデータが出ていませんが、若年層の感染率や死亡率を考えれば、一斉休校の必要性はなかったと思います。
佐藤 政府としては、国民に重大性を伝えるという心理的な効果を狙ったのでしょう。しかも学校なら経済活動には影響が少ない。
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