知られざる「遊廓」の実態 かつては全国に約3万7000軒「コンビニ密度」に匹敵も

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消滅間際の「遊廓」を10年にわたって調査、撮影

“夜の街”などという、コロナ以前には耳にするのも減っていたような言葉が飛び交い、なにやらドキッとさせられる昨今。しかし、かつてこの日本には、“接待を伴う”どころか、公然と売春をいとなむ街があった。よく知られているように、それらは俗に「遊廓」と呼ばれ、昭和33(1958)年4月に施行の「売春防止法」によって消滅するまで、全国に数多く存在していたのだ。

「売春防止法が施行される以前、娼家は全国に約3万7000軒あったといわれ、これは当時の人口10万人あたり約41軒に相当します」

 そう語るのは、「遊廓文化」に魅了され、5年前には遊廓専門の出版社「カストリ出版」を創業、東京の吉原遊廓跡に「カストリ書房」を構える渡辺豪さんだ。

 娼家とは、いわゆる娼婦を置いて客をとった家のこと。

「この数字は現代のコンビニ密度44軒(令和元年時点)に近く、いわば“コンビニ感覚”で街に遍在していたのです」

 それだけの数の「遊廓」が実際にあったということに驚く。じつは意外にも、身近なところに「存在していた」ことを知らない人が多いのではないだろうか。

北海道から沖縄までカメラに収めた遊廓跡は約500箇所に及ぶ

 それも当然な面がある。60年余の時を経て、かつての娼家の多くはすでに取り壊されて失われ、同時代を生きた人の多くも亡くなってしまっているからだ。

「当時の記録や記憶は近年、急速に失われようとしています」

 今ならまだ記録を残すことができるのではないか――残したい、と強く思った渡辺さんは、北海道から沖縄まで各地に残る遊廓跡を取材撮影してきた。2010年頃から10年にわたってカメラに収めた遊廓跡は約500箇所に及ぶ。

 もちろん、すべて現在は遊廓として機能していない建物ばかり。撮影に際して渡辺さんが熱意をもって後世に残す意味を語ると、賛同してくれる所有者も多かったという。

 このほど、そのなかでも傑作を厳選した写真集『遊廓』(新潮社とんぼの本)を刊行した。

 在りし日の遊廓というと、特定のイメージのものを連想する人が多いのではないだろうか。贅沢な建材をふんだんに使い、技巧を尽くして仕上げられた、豪華絢爛な建築デザイン。吉原や島原の遊廓を描いた映画やテレビの時代劇でよく見る、「近世に花開いた、華やかなりし江戸文化」の象徴のような……。

 しかし、それはのちにつくられた、最大公約数的なイメージだと渡辺さんは言う。

「娼家の意匠というと、細工を凝らした円窓や、非日常へと誘うような太鼓橋を思い浮かべる人も少なくないかもしれませんが、これは数奇屋建築や社寺建築にみられる様式の援用であって、豆タイルなどもカフェー(洋風の設えで女店員による接待を伴う酒場。戦前に流行)から導入された様式です」

日本の「影」の近代遺産の記録

 要するに、象徴化された娼家の建築とは、ほかの建築様式からのツギハギで成っているものなのだという。

 さらに、ツギハギによって生まれた一見の美しさは、虚ろな買売春を取り繕うための虚飾にすぎない、とも言う。“虚”に隠された“実”の部分――男と女、富と貧、善と悪、愛と欲などという、時代を超えて私たちが答えを求めてやまない人間の価値のようなもの――について感じ、学べるのが、娼家という建築なのではないか、と渡辺さんは語る。

「取り壊されて消滅してしまえば、たとえお金をかけてカタチだけをなぞったとしても、そこに生きた人の生き様の跡を再現することは不可能です。だからこそ、当時の建築を次世代に渡したくて、愛おしく思うのです」

 現在目にすることができる娼家のほとんどは戦後か、せいぜい近代以降につくられた建物だ。しかし、渡辺さんが撮影を始めてからこの10年のうちにも、格段に劣化が進んだ娼家や、取り壊されて失われたものも少なくないという。これからも、さらに多くの娼家が消えていくだろうことは、間違いない。

 こうした職業や「職場」があったことに嫌悪感を示す方もいることだろう。しかし、これもまた何らかの形で記録しておくべき歴史なのではないか。

デイリー新潮編集部

2020年7月3日掲載

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