「早慶」対「明法立」の構図が野球ファンを虜に…大正10年に結成された“東京5大学リーグ”

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にっぽん野球事始――清水一利(20)

 現在、野球は日本でもっとも人気があり、もっとも盛んに行われているスポーツだ。上はプロ野球から下は小学生の草野球まで、さらには女子野球もあり、まさに老若男女、誰からも愛されているスポーツとなっている。それが野球である。21世紀のいま、野球こそが相撲や柔道に代わる日本の国技となったといっても決して過言ではないだろう。そんな野球は、いつどのようにして日本に伝わり、どんな道をたどっていまに至る進化を遂げてきたのだろうか? この連載では、明治以来からの“野球の進化”の歩みを紐解きながら、話を進めていく。今回は第20回目だ。

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 東京六大学野球リーグの“礎”になったとされる、早稲田、慶應、明治で結成された「三大学リーグ」は順調にスタートしたが、1915(大正4)年にハワイ遠征中の明治が部員の暴行事件という不祥事を起こし、秋の三大学リーグは中止となってしまった。そのため、一時は存続が危ぶまれたものの、翌年には予定通り3校によるリーグが復活した。

 そして、三大学リーグが始まって4年目の1917(大正6)年、新たに法政大学が加わった。法政に野球部ができたのは1915(大正4)年。その2、3年前から大学に併設されていた予備校で結成されたチームが法政大学野球部として正式に認められるようになった。当時、法政は早稲田大学監督・飛田穂洲の指導を受け、早稲田、慶應、明治との試合でいずれも敗れはしたが、どの試合も僅差の接戦だったことから実力を認められ、三大学リーグへの加盟が承認されて「四大学リーグ」へと発展していったのである。

 さらに、法政から遅れること4年。1921(大正10)年に5番目の加盟校として立教大学の参加が認められた。そのころの立教は西洋のスポーツを積極的に導入している学校だった。だが、野球に関しては他校に遅れを取っていた。学内に野球チームができたのは明治も末期の1909(明治42)年とされるが、そもそも当時の立教は学生数わずか50人足らずの小さな学校で、野球部も活発な活動はしていなかった。

 立教大学野球部が本格的なチームになったのは1920(大正9)年。大学から正式に野球部として認められるようになる数年前からだ。立教もまた法政同様、飛田の指導を受けていたことがあり早稲田との練習試合では4戦全敗と全く歯が立たなかったが、飛田の推薦もあって四大学リーグへの加盟が認められた。

 ただし、立教の加盟に際しては2つの条件がついていた。1つは「ある程度の実力が備わるまで早慶とは対戦しない」、またもう1つは「立教戦に関しては観客から入場料を徴収しない」ことだった。これを見る限り、当時の立教の野球レベルは実力校の早慶はもちろんのこと、新興の明治、法政との間でも観客から入場料を取れないほどの開きがあったということだろう。

 それでも弱小チームの立教が加盟できたのは飛田の力が大きかったことがよく分かる。それはつまり、当時の学生野球では早稲田がリーダー的な立場にあったということでもある。

 ともあれ、三大学から始まったリーグは四大学リーグから五大学リーグへと発展、依然として、明治30年代にあまりにも応援が過熱しすぎて中止となってしまった早慶の戦いはなかったものの、早慶VS新興チーム(明治・法政・立教)の図式がファンの関心を呼び、注目をもっとも集めるスポーツイベントとして成長していったのである。

 さて、いまさら説明するまでもないことだが、東京六大学野球リーグは1925(大正14)年に始まった早稲田、慶應義塾、明治、法政、立教、東京の6大学による野球のリーグ戦だ。しかし、それ以前にこの6つの大学による何か別の組織があったわけではなく、その意味でいえば、東京六大学野球リーグが現在とはまったく異なる顔ぶれになる可能性も少なからずあった。

 いま歴史の推移を振り返ってみると、日本野球の発展に大きく関わってきた早稲田、慶應義塾の両校、そして、早慶の戦いを間に立って復活させようとした明治、この3校が中心となり、明治と友好関係にあった法政を加えた4校が参加したことは必然だっただろう。そこまでは順当な流れだったといってもいい。

 ただ、残りの2校については中央、専修、青山学院、学習院、明治学院、国学院など当時野球が盛んだったどの学校が加わってもおかしくなかった。だから、現在の立教や東大の代わりに中央や青山学院などの学校が参加したり、さらにいえば、東京「六大学」リーグではなく東京「八大学」リーグとして組織される可能性も少なからずあった。そうなれば日本の野球の歴史も現在とは大きく変わっていたはずだ。

 いま挙げた学校の中でリーグ入りの可能性がもっとも高かったのは、何といっても中央だ。そもそも立教がリーグに加わることのできた背景には指導を受けていた飛田穂洲早稲田大学監督の推薦が大きな後押しとなったことは先に述べた。ところが、その立教よりも前から飛田の指導を受けていたのが他ならぬ中央だ。そのため中央のリーグ加盟がスムーズに決まるのではないかという見方が大方だった。

 もちろん、中央自身も早慶明法に次ぐ5番目の参加校となるべく飛田との交渉を積極的に続けていたことだろう。加盟には何の問題もない。おそらくその時点では、中央は自分たちがリーグに参加できることを信じて疑ってはいなかったはずだ。しかし、実際にはそうならなかった。それはなぜか?

【つづく】

清水一利(しみず・かずとし)
1955年生まれ。フリーライター。PR会社勤務を経て、編集プロダクションを主宰。著書に「『東北のハワイ』は、なぜV字回復したのか スパリゾートハワイアンズの奇跡」(集英社新書)「SOS!500人を救え!~3.11石巻市立病院の5日間」(三一書房)など。

週刊新潮WEB取材班編集

2020年6月27日掲載

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