【特別対談】「制裁外交」から見える「盟主」アメリカの揺らぎ(上)
杉田弘毅さん(共同通信社特別編集委員)の最新刊『アメリカの制裁外交』(岩波新書、2月刊)が話題を呼んでいる。トランプ政権になって乱発される「経済制裁」は本当の実効性、「武力制裁」と比べての人道性、そしてアメリカ自身に落とす影について縦横に論じた快著だ。
「新型コロナウイルス」の感染拡大にブレーキがかからず、さらに人種問題で揺れるアメリカ。それでも「制裁カード」を手放さないアメリカは、そしてこの国を「盟主」とする国際秩序は今後どうなっていくのか――。
いまもっとも問われているこのテーマについて、国際関係論や外交史、アメリカ研究が専門の三牧聖子さん(高崎経済大学准教授)と「Zoom」でじっくりと語り合っていただいた重厚な対談を、3回にわたってお届けする。
三牧聖子:感染が拡大する「新型コロナウイルス」(COVID-19)。中でもアメリカは世界最大の感染国になっています。国内でもアメリカの構造的な人種差別への抗議デモがいよいよ広がっており、ちょうどアメリカの弱さとか不安定さが表れているタイミングで、今回お話しさせていただくことになりました。
杉田先生の著書『アメリカの制裁外交』(岩波新書)を読みましたが、まず1つ論点にしたいと思うのが、経済制裁の非人道性ということです。
アメリカは人道主義帝国であり、人道と重なる形でアメリカ帝国が発展してきた、という流れがあると思うのですが、制裁外交という視点からみると、非常に非人道的なアメリカの姿が見えてくる。今後のポスト・アメリカ世界ということと重ね合わせても、さまざまなインプリケーションがある本だと思いました。
そういう意味でご著書は、アメリカの制裁外交を通じたアメリカ帝国論でもある、と私はまず読んだのですね。
「血の流れない戦争」
三牧:たとえば本書の、「血の流れない戦争」という強烈な帯文がすごくいいと思ったのですが、この言葉は経済制裁というものの本質をとらえています。
経済制裁のことを誰も戦争と呼ばない。戦争は誰もが「いけないものだ」ということで、戦争を起こした国は国際社会から批判され、制裁を受ける。
けれども経済制裁は決して戦争と呼ばれないために、その非人道性がなかなか問題にならない。ところがこの帯文で提起されているのは、その実態をみたとき、経済制裁は戦争より人道的でましなものだと本当に確信をもって言えるのか、ということだと思うのです。
アメリカは、イランなどの国が「平和を脅かしている」から、経済制裁を「正義」の行為として行うと言っています。でも今アメリカは、COVID-19が世界中で感染拡大し、イランも大きな被害を出している状況にもかかわらず、制裁解除どころかむしろ強化しています。アメリカの経済制裁は、いったい本当に「平和」のための「正義」の制裁なのか。この疑問は、著作のいろいろなところに見え隠れしています。
しかも、制裁の「後」が見えない。どういう条件なら解除されて和解に向かうのかということも見えないまま、ある意味制裁が自己目的化して、単に「懲罰」として制裁が行われている。
血は確かに流れていないけれども、市民に持続的で大きな影響を与えているという意味では、戦争と経済制裁は変わらない。しかもパンデミックという状況でも制裁を強め、市民を痛めつけているという、本当に非人道的な事態が生まれている。
著作は、こうした問題を単に道義的に問題視するだけではなく、これが本当にアメリカの国益に照らして賢明なのかどうかという、現実主義に基づく問いも投げかけている。
アメリカは制裁を乱発してパワーを乱用することで、自分が自覚していなかった――特にトランプ政権は自覚していないように思うのですが――アメリカのこれまでの覇権体制を支えてきた信頼という無形のリソースをどんどん掘り崩している。短期的には、相手に懲罰を加え、痛めつけ、パワーを誇示し、いかにもアメリカの目的を達したように見えるけれども、長期的には、今までアメリカのパワーを支えてきたものを掘り崩しているのではないか。
あとがきで、アメリカという国のパワーの源泉は何かということを考察しておられますが、それはこの著作全体を通じて問われている。
このままトランプ政権のような形で、野放図に制裁外交を続けていたら、アメリカのパワーの源泉自体が掘り崩されていくという問いが、私は含まれているように思いました。
「永久的な制裁」へ
杉田弘毅:いろいろと読み取っていただいてありがとうございます。
経済制裁というのは、「トゥキュディデスの罠」(既存の大国に新興国が挑戦する場合の多くは戦争が起きる、ということ)で有名な古代ギリシャ時代のペロポネソス戦争(紀元前5世紀)の時に歴史的に初めて現れた、と歴史学者はよく言います。
もちろんその後、19世紀初頭にナポレオンが行ったイギリスに対する経済制裁(いわゆる大陸封鎖)とか、あるいは日本にとって非常に記憶に残る、第2次世界大戦に至った「ABCD包囲網」がありました。そしてこれらの経済制裁はいずれもそれだけで決着せず、最終的には戦争に進んでしまい、そして優劣が決するということだった。
アメリカの制裁は、冷戦時代のココム(対共産圏輸出統制委員会)による制裁あたりから少し性格が変わってきていると思いますが、それでもイラクに対する制裁が効かずに、最終的にはイラク戦争になだれこんだことにも明らかなように、やはり制裁の次は戦争という順番で事態が進んでいます。
制裁で敵国が態度を変えるのであれば、それはそれでよし。しかしそうでなければ次は戦争だ、という二段構えで進むのが、一般的な経済制裁の歴史だと思います。
ところが、現在アメリカがやっていることは、トランプ大統領は特にそうですが、まず「戦争は嫌だ」という意思が明確にある。
これまでの歴史からすれば、制裁をかけられてアメリカの言うことを聞かないでいると、次は本当に戦争に発展してしまう。そうなると体制が崩壊、あるいは指導者が捕まって裁きにかけられ大変なことになる。だから経済制裁の段階で白旗を上げておこうというようなメカニズムで対象国が反応することが、制裁の成功ということになる。
でも現在、中国やイラン、ロシア、北朝鮮、あるいはベネズエラにしても、経済制裁で白旗を上げるそぶりがまったくない。
当然アメリカとしては、では次のステップは何か、でも「戦争は嫌」だから戦争はないということになると、結局は制裁をさらに強化しようとなる。
そうなると、まさに持続的永久的な制裁体制が出来上がってしまうことになるわけです。
その意味では、イランが一番明確な形で永久的な制裁体制になっていますね。
2015年にいったんは「包括的共同作業計画」(JCPOA)合意ができて制裁解除の動きもあったのですが、2018年にトランプ政権がこの合意から離脱して制裁を復活させたので、結局永久的に続いている。北朝鮮も同様に、半ば永久的な感じになりつつあります。
つまり、解除の要件が満たされていないどころか、制裁相手国はさらに挑発的な行動をとり、それによってさらに制裁が強化される。
こういう状況が、不思議でいびつな国際関係を作り出しています。
誤解を恐れずに言うと、国際関係の対立を決着させ次の平和的な秩序づくりに進むという面では歴史の中で戦争は意味――というと言葉が厳しいかもしれません――を持ったわけです。人道的に大変な被害を戦争はもたらすわけですから、取るべき手段ではない。ただ、本質的な問題である対立の種の解決に背を向けたまま、制裁が乱発されその永続化が進むいびつな世界は、戦争を否定している現在の国際社会の特性をも反映しているわけです。
人道的な制裁などない
杉田:今の時代は、民主主義国は為政者の戦争を簡単には許さないし、戦争を簡単には認めない国際規範もある、核兵器など大量破壊兵器の被害が想像を絶する、といったいろんな条件があり、戦争ができない国際社会になった。それは素晴らしいことなのだが、代替手段として経済制裁には非常に有用性があるのではないかという期待がどんどん向上してしまった。
ところが実は、効能はそれほどのものではなかった。
決着がつかないから、制裁の量及び質が拡充されるけれども、それでも当初の目的とされている効果からはさらに遠ざかるという状況に、今はあると思います。
アメリカの人道主義ということで言うと、今回非常に象徴的に表れているのが香港情勢への対応ですね。広い意味での制裁になるのかもしれませんが、香港への優遇措置を終わらせると発表した。メインランドチャイナと同じように関税面やビザ発給で香港を扱うと米国は言っています。そうなると、香港の金融センターとしての役割は損なわれていきますよ、と。
その根拠となったのが、昨年11月に施行された「香港人権・民主主義法」というアメリカの法律です。
これまでアメリカは、大量破壊兵器や貿易赤字、あるいはイランや北朝鮮への支援などといった問題で中国とやりあってきましたが、とうとう人権や民主主義という政治体制そのもの、まさに体制間の競争に勝利する武器として制裁を使っていくということになってきた。
ただ一方で、アメリカで起きている黒人差別への抗議デモや暴動、それに対するドナルド・トランプ大統領の発言のあり方を見て、さっそく中国は、「よく香港のことをあなたが言えますね」といった反応を示しており、足をすくわれているところがある。
ここにアメリカの弱みが出ていて、先ほど三牧先生がおっしゃった、制裁によって対象国の市民が痛手を蒙るという人道的な問題に加え、人道を目的とした制裁というものを相手国に科すだけの道義的な高い立場にアメリカは立っているのか、という不都合が現実も暴露されてしまっていると思います。
カール・シュミットのアメリカ帝国批判
三牧:今の世界は「戦争ができない世界」だ、というご指摘は、経済制裁を考える上での本質だと思います。
今は戦争や武力行使に関する規範や国際法はたくさんあり、国際社会でのコンセンサスもある。ところがどんな経済制裁が許され、何が許されないのかという、経済制裁に関する規範はほとんどない。
侵略戦争は許さない、侵略国家を罰して行動を改めさせるための経済制裁は正義である、という観念は、第1次世界大戦と第2次世界大戦の間に、国際連盟規約(1919年)、不戦条約(1928年)、そして最終的に国際連合憲章(1945年)という流れで作られていきました。
これは確かに国際規範・国際法の進歩だとは思いますが、アメリカの国益に照らしても非常に都合がよかった、ということを同時代の人たちも洞察していた。中でも私が本書を読みながら何度も想起したのが、カール・シュミット(ドイツの思想家、政治学者)のアメリカ帝国批判でした。
シュミットは次のように分析し、批判します。
アメリカは、武力行使は侵略戦争だからダメだという規範を意識的か無意識的か、自分の利益にかなうような形でつくりだし、使っている、と。なぜなら、アメリカにとって、自らが優位を占める現行のシステムを維持することこそが最上の利益であり、ことさらに侵略する必要はない。むしろアメリカにとっての利益は、既存の秩序に挑戦する国家に「侵略国家」というレッテルを貼り、国際社会の制裁の対象にすることにこそある。ルールメイキングの力を握るということは、すごいヘゲモニーである、と。
現代帝国主義とは、こうした規範を使ってまさに自分の都合のいいように、しかも普遍主義の装いをまとって行うから、これを批判するのも挑戦するのも難しい。挑戦したら自分たちが国際社会の敵、犯罪国家とみなされる。
これが侵略戦争です、これが人権違反ですということを、結局アメリカが決定しているわけですが、それがあたかも国際社会のコンセンサスがとれているかのように見えるので、二重三重に挑戦することが難しいということを、シュミットはすでに大戦間期に洞察していたわけです。
シュミットはもう1つ、圧倒的な経済力という部分にアメリカ帝国の本質を見出していました。経済覇権を握った現行のシステムを維持することはアメリカにとって都合がいい上に、経済力を通じた影響力の行使は、侵略として批判されることもない。国際連盟規約や不戦条約、国際連合憲章にも、経済制裁もだめだという観念はなく、むしろ国際社会の秩序を守る善とみなされている。
こうしたシュミットの批判は、先生が先ほどおっしゃった不思議でいびつな国際関係というものを同時代的にも感じていたことを表していると思います。侵略戦争はだめだという規範が積み重ねられていた時代から、さらに金融制裁が加わり、アメリカの経済覇権が絶対的になった今を私たちは生きている、ということになるのでしょうね。だから先生の洞察とシュミットの洞察は重なるように感じました。
小さな行使、大きな影響力
三牧:あと、今お話をうかがいながら思い起こしたのは、神学者であり、国際政治学では現実主義者と分類されるラインホルド・ニーバーです。ニーバーは1930年、雑誌『アトランティック』に「不格好な帝国主義者」という論説を寄稿し、シュミットと本質的に同様の洞察を展開しています。
ニーバーは、アメリカ帝国が持つ、ある種の無邪気さに本当の罪がある、と言います。自分の経済力で、どれだけ他国民の生命財産に影響力を与えているか。武力を直接行使していないから気づくこともなく、むしろそれが正しい、国際社会にも利益を与えていると勘違いしていたりする。
ニーバーに言わせると、経済力で世界に圧倒的な影響力を行使しておきながら、それを自覚せず、むしろ不戦条約の成立に際してイニシアティブをとって「戦争はだめです、平和は大事です」と臆面もなく言えてしまうアメリカこそ罪深い、と。
大戦間期のアメリカが超大国の地位を確立していく過程で、同時代の思想家たちがこのように洞察しているわけですが、これらの洞察と先生がアメリカに対して抱く違和感が非常に重なっているように思うのです。
それから本書の「はじめに」で、先生は故ジョン・マケイン上院議員のいわゆる「ドローン戦争」批判(「自らの死をも覚悟して戦争を始めるという厳粛さ、戦場をめぐる倫理観が損なわれる」)について共感的に書かれています。
マケイン議員は元海軍軍人で、ベトナム戦争では捕虜となった経験もある人ですから、自分は安全な地帯にいながら他国民はいくらでも殺せるというドローン戦争のようなものが許せないわけですね。
一方でトランプ大統領が言う「戦争が嫌だ」という言葉は、米国人の犠牲を出したくないということ。もし犠牲が出れば自分が批判を受け、自らの選挙に影響するという部分もありますし、犠牲という米国民のコストを最小限にしながら、世界には影響力を行使して自分の思い通りに動かしたい、という意図もある。
ドローン戦争は確かに、米国民の命を大事にすることの極限みたいなものではありますが、これに対してマケイン議員などは違和感を覚えるわけです。確かに米国民の命だけを考えると最善の選択なのですが、それによって兵隊は、他国民が目の前で死ぬことがないので、どんどん他国民の痛みへの想像力を失ってしまう。
経済制裁も同じで、その影響はアメリカが想像もしないところにまで及んでいるのに、行使する側のアメリカには、市民の生活をどれだけ脅かしているかということの自覚がない。だからいつ制裁を終えるかということも設定しない。
逆に新型コロナのような感染症が蔓延しているにもかかわらず、イランへの制裁を強化するというのも、まさにマケイン上院議員が懸念していた想像力の麻痺や欠如につながる話なのだ、と思いました。
「理念の大国」
杉田:アメリカは、「理念の大国」と言われています。その理念が比較的グローバルに受け入れられるものだったことから、正面からそれに対抗するようなイデオロギーが出てきていない。
ただ、社会主義、共産主義というイデオロギーに対しては、先生ご専門のウッドロー・ウィルソン(第28代アメリカ大統領。第1次世界大戦後、国際連盟の創設に尽力)が社会主義イデオロギーに脅威を感じて、「14カ条の平和原則」(1918年)のようなアメリカなりの理念を打ち出さざるを得なかった。
そういう意味で、イデオロギーなり理念なりをきちんと打ち出す国が超大国になり得るとするならば、アメリカは最初は受け身的に超大国になった国であって、積極的になった国ではない。
むしろソ連の方が意図的、つまり世界革命という意図を持って超大国としての道を歩み始めた。ところがそれは、人間が本来持っている意志や本能とぶつかって潰れてしまった。
第2次大戦後に出来上がってきたルールを見ると、1つは内政不干渉という国連憲章が持っている原則があります。一方で、国連憲章の前文などが醸し出している民主主義とか自由、人権といった国境を越えた普遍的な理念もある。
問題はそれらがぶつかりあう可能性がもともと内包されていることです。たとえば中国などは内政不干渉を重視しますし、アメリカは自由とか人権といった理念の国境を超えた広がり方を重視している。
さらに、兵器に関するルールもあります。最初の試みは核実験禁止、そしてNPT(核不拡散条約)になっていきますね。このあたりは、要するにみんなで平和を作ろうというアメリカ的理念と、大国の利害が一致したところで規範ができている。
その後は生物兵器、化学兵器、そしてミサイルなどの大量破壊兵器全体まで進み、国際的なルールができあがった。
そしてこのルールでは、内政干渉を許すわけです。たとえば北朝鮮が核兵器を作ろうとする。これは国家の安全保障政策であって内政といえば内政だけれども、核兵器は認めない。同様に、イラクについてもイランについても認めない、いかなる国にも認めない。
こうしたルールメイキングが安全保障分野から始まって、今は経済政策においても貿易のさまざまな枠組みが広がりつつあります。そのルールや枠組みはアメリカ的な理念に基づくという看板を掲げつつ、条約や国連安保理決議、あるいはG7(主要7カ国)やG20(主要20カ国・地域)における政治文書といった形で――法的な拘束力の有無などグラデーションはあるが――それらが国際的なコンセンサスということにして、アメリカは合意づくりの主役であり、履行の元締めでもある。
このような形で、冷戦後のアメリカはグローバルに、帝国的な支配をしてきた。しかも冷戦後はアメリカがユニポーラ(単極)なので、これに挑戦する国は長くなかった。
ところが、挑戦者が出てきた。
1つはイランです。イランはイスラムを掲げたが、これはいわゆる自由や民主主義といったヨーロッパの近代主義、脱宗教型啓蒙主義に対するアンチテーゼとして出てきている。
もう1つは、中国が非リベラルで強権的な統治を正々堂々と主張している。しかも世界の多くの国が中国のやり方を受けて入れている、と言う。そして中国はアメリカに対して“ウィンウィン”または相互主義というか、お互いのところには手を出さず縄張りを侵さずやっていこうということを言ってきている。
この2つの挑戦に対し、アメリカは本当の意味での体制間の競争、イデオロギーが根本のところにある競争として位置付けている。
だから本来ならば、あらゆる力を動員して対抗しなければいけない。第3次世界大戦的な展開をしなければ、「歴史は終わらない」のだが、それをアメリカは血を流せないということで忌避せざるを得ない状況にあると思います。
コストを払わないアメリカ
杉田:三牧先生もおっしゃるとおり、アメリカは大国のコストを払わない。私はこれが、アメリカの一番大きな問題だと思っています。
やはり超大国である以上、選択的ではあれそのコストを払う、あるいはバードン(重荷)を背負う。それは何かというと、やはり軍事力を行使する決意にあるのだと思う。
もちろん、戦争はないほうがいいに決まっている。だけどアメリカという国が持っている超大国としての資格とは、やはりコストは払う、軍事力を行使する決意を明示することにあるのだと思う。
かつてのアメリカは超大国として国際社会から巨大な利益を得て、その代償として高い税金も払ってきた。それはアメリカ人が戦闘で死ぬことであり、アメリカ人の税金を戦争で使うことだった。それだけのコストを払う国が他にはないわけだから、われわれはある意味好き放題に、帝国として振る舞う。その代わり、みなさんの安全はアメリカに歯向かわない限り保証する――というのが、超大国アメリカだった。
ところがコストを払わないとなると、アメリカが実務的にも実効的にも、倫理的にも超大国として振る舞う資格がどんどん損なわれていく、という気がします。
三牧:今私たちが生きている世界では、中国がアメリカに代わる公共財の提供者のように振る舞っています。もちろんそれは、かつてのアメリカに比べたら普遍性も信頼も欠いていて、とても代替にはなれないのですが、何もしようとしないアメリカを横目に、中国が国際社会の「恩恵的」な覇権国として振る舞っている。
マスク外交などもその文脈で捉えられます。こうした役回りは、かつてはアメリカが率先していたはずのことです。ところがCOVID-19ではアメリカ自身が最大の感染国になってしまい、中国に二歩も三歩も遅れ、先手を打たれてしまった。公共財の提供者は今後どうなるのか、というのは、今後の国際政治において非常に大事な論点だと思います。
これまでアメリカは、自分たちは過去の帝国とは異なり、恩恵的な公共財の提供者だという自意識を強烈に持ち、他国にも利益を与え、そこからくる信頼を通じて国際秩序を維持してきた。
もっともこれは現実の半面で、実はドルの金融ネットワークというのは単に公共財ではなく、それによってアメリカが力を行使でき、アメリカが広い意味での利益を得ることができる仕組みだった。米国民の利益を侵害するようなことをしたら、ここから締め出されて法外な制裁金を科されることになる。
つまり、金融ネットワークは公共財、グローバルインフラという一面とともに、アメリカの力の源泉でもある。このネットワークに参加することで便益を得られるけれども、違反があればこのネットワークから締め出される。だからアメリカに従わざるを得ない。こうした二面性を持つすごくリアリスティックな力の形態だということを見据える必要がある。
先生は、リベラルな国際秩序とか安定した国際秩序と語られてきたものが、実は広い意味でアメリカを脅かさない限り、という留保付きのものであったことを本書で描き出しています。
リベラルな国際秩序の動揺は、特にトランプ政権になってから多く語られるようになってきた。その中には日米同盟も含まれますから、私たち日本にとっても動揺は望ましくないことなのですが、ではアメリカの制裁の対象になっている国にとってはどうだろうか。こうした国にとっては、「リベラルな国際秩序」の一角をなしてきたアメリカの金融ネットワークのほころびや、それに代わる動きにこそ、生存の希望が見える、アメリカ覇権の揺らぎのなかにこそ新しい秩序が見出されるということもあるわけです。こうした意味で、本書には未来の国際秩序へのインプリケーションも感じました。
体制間競争を認識
杉田:トランプ政権発足後の2017年、最初の「国家安全保障戦略」を発表しましたが、その中で中国とロシアをライバルと位置づけた。
その後、ホワイトハウスは今年5月に「中国に対する戦略的アプローチ」という16ページの文書を出しました。これを読むと、「システムズ」という表現をいろいろなところで使っている。つまり中国とは体制が違う、異なる体制の間で競争が起きているということを意識している。
それは具体的には、中国が豊かになって、アメリカも含む西側諸国とのエンゲージメントが深まれば政治的な体制も変わっていくという、対中政策の前提が間違っていたことを認識し、そこから組み立てなおしていかなくてはならない、ということを確認している。
「システム」という語をどう訳すかはさておき、国造りのあり方が違う、ということを意味するのだと思うのですが、これは結局、アメリカにとって現在の秩序はユニポーラではないということを認識したということでしょう。アメリカだけが世界の秩序を作っているわけじゃないということに、遅ればせながら気付いたところがあると思うのです。
また私は、体制間の競争というのは秩序を安定させる効果もあるのではないかと思う。
たとえば冷戦時代のソ連との技術競争がそう。
アメリカはここでしばしばソ連に追い抜かれ、あわててそれに追いつき、追い越すということがあった。宇宙開発でのアポロ計画などがいい例です。このように、怠惰なアメリカや西側の目を覚まさせるという効果が、体制間競争にはあります。
もちろん技術だけではなく、システムもそう。西側のシステム、つまりリベラリズムは現在、国際的に受容してもらえるような素晴らしく自慢できるものなのかどうか。
競争が、このような意味で鞭を打ってくれるという効果もあるのではないか。
特に後者については、ポピュリズムの高まりの中でもまったく経済格差の問題が解決できていない、ということが根底にある。
これはもちろんロナルド・レーガン政権の税制改革以来、あるいはイギリスのマーガレット・サッチャー政権以来の新自由主義的な経済政策が受け入れられた時以来、格差はどんどん広がる一方であって、これを元に戻すことができないということ。これは果たして、システムとして機能しているのかという重大な問題がここに突き付けられている。
もう1つ、移民受け入れの問題があります。
移民排斥は単なる国民と外国からの移民・難民という問題だけにとどまらなくなっている。特にアメリカにおいては、社会的なマジョリティとマイノリティとの対決が、今まさに抗議デモや暴動という形で起きているというところがある。
他にも地球温暖化といった大きな問題が残っているし、感染症などは格差ゆえに、アメリカでは黒人やヒスパニックが多く亡くなっている。こういう風に見ていくと、アメリカが言うような“われわれのシステムが素晴らしい”という前提自体が崩れているというところがある。
ではそれに対して中国のシステムが必ずしもいいとはまったく思わないけれども、こうした状況で中国に伸長を許すようなリベラリズム側の脇の甘さが出てきているのは間違いない。体制間の競争の中で、そうしたリベラリズム側の大問題についてもう1回向き合う必要が出てきていると思います。
だから体制間の競争というのは、戦争がない限りでの良い緊張をもたらして、その結果われわれのシステムの何がいいのか、何がダメでどう直すべきなのか、が見えてくることになる。
その意味では、自由民主主義とかリベラル・インターナショナル・オーダー(自由で開かれた国際秩序)が「いい」と言うのであれば、それによって“こういったいろんな問題が解決できました”ということを世界に示さない限りは、ただの空念仏みたいになってしまう。ここが一番大きな問題だと思います。(つづく)