大正時代に結成された早慶明の“三大学リーグ”は早慶戦がない「変則リーグ」だった!
にっぽん野球事始――清水一利(19)
現在、野球は日本でもっとも人気があり、もっとも盛んに行われているスポーツだ。上はプロ野球から下は小学生の草野球まで、さらには女子野球もあり、まさに老若男女、誰からも愛されているスポーツとなっている。それが野球である。21世紀のいま、野球こそが相撲や柔道に代わる日本の国技となったといっても決して過言ではないだろう。そんな野球は、いつどのようにして日本に伝わり、どんな道をたどっていまに至る進化を遂げてきたのだろうか? この連載では、明治以来からの“野球の進化”の歩みを紐解きながら、話を進めていく。今回は第19回目だ。
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明治30年代、多くの野球ファンに人気を博した早慶戦は、早慶両校学生の愛校心の盛り上がりがあまりにも大きくなりすぎたことによって、応援合戦がヒートアップした。その結果、両校によるトラブルが多発して大きな社会問題を引き起こしてしまったため、1906(明治39)年11月以降、早慶戦は中止となり両校の不戦状態が続くという、ファンにとっては残念な事態となっていた。
そうした中、1907(明治40)年、「横浜外人倶楽部」という外国人チームの呼びかけによって早稲田、学習院、横浜商業が参加し、4チームによる日本初のリーグ戦「京浜野球連盟」が組織されるなど各地でも野球が盛んに行われるようになり、また、早慶以外にも力をつける学校が次々に登場してきた。
とりわけ、頭角を現してきたのが1910(明治43)年、正式に野球部が創設された明治大学である。明治は創部からわずか3年後の1913(大正2)年2月にはフィリピン・マニラで開催された第1回極東選手権競技大会(東洋オリンピック)の野球競技に日本代表として出場して優勝。さらに翌年にはアメリカ遠征を行なって26勝28敗2分の成績を収めるなど、その実力が高く評価され注目を集めた。
そして、同じ1914(大正3)年の秋、その明治の提唱によって早稲田、慶應、明治による新たなリーグ「三大学リーグ」が開始されることとなった。
しかしながら、三大学リーグとはいっていながら、早慶両校は戦わないという状況は依然として続いていた。そのため対戦は早稲田対明治、慶應対明治の2カードのみという極めて変則的なものであり、その点、ファンにしてみれば何とも歯がゆい感じのリーグだったといわざるを得ないだろう。
しかし、今改めて歴史を振り返ってみると、この三大学リーグが後の東京六大学リーグの基礎となったことは間違いなく、その意味で明治の果たした役割は極めて大きかった。もし、この時、明治が三大学リーグを提唱していなければ早慶戦の復活はどうなっていたか分からないし、現在の東京六大学リーグもはたして存在したかどうか? もし仮に存在したとしても、おそらく現在とはまったく違った形になっていたはずだ。
いずれにしても、こうして始まった三大学リーグに対する人々の関心は予想以上に高く、多くのファンが球場につめかけた。早慶が直接対戦しないのならば、せめて早慶それぞれが明治とどう戦うのかを見ようというのが大方のファンの心理だったようだ。その戦いぶりから「やはり早稲田が上だ」「いや慶應のほうが強い」と、おそらく両校のファンは大いに議論を戦わせ、大いに盛り上がったに違いない。
ところで、この第1回三大学リーグ戦は日本の野球では初めての入場料を徴収した試合でもあった。料金は10銭~50銭とされ、収益は野球場の整備や海外野球チームの招聘費用、早慶明3チームの海外遠征費用の補助、さらには各野球部の運営に必要な諸経費などに当てられたが、選手の慰労会といった飲食などに関わる費用には一切使用しないことが厳しく定められていたそうだ。
ちなみに、このころ明治大学は多くの有望選手を次々に獲得、ますます力をつけていった。当時、有力選手の多くは実力上位の早稲田、慶應への進学を希望していたが、明治の監督、野球部長は、
「早稲田(慶應)に行っても慶應(早稲田)とは戦えないぞ。明治に来れば早稲田とも慶応とも戦える。どうだ、男だったら明治に来ないか?」
こういって口説いて歩いたのだという。そのため、明治に多くの有力選手が集まったのだろう。
【つづく】