「女房と一緒の時間を少しでも長く」 在宅介護にはどのくらいお金がかかるか──在宅で妻を介護するということ(第2回)

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使えるサービスの半分でもう十分

 大学病院入院中に、在宅に移行したときにお世話になる居宅介護支援事業所を決めた。あまり深く考えず、家から徒歩3分のところにある近場の事業所を選んだ。困ったときにすぐ相談できると考えたからだ。

 担当するケアマネジャー(女性)に病院まで来てもらい、「要介護認定」の申請を行った。介護保険の窓口は市区町村にある。1週間ほどして、千葉市緑区の高齢障害支援課の調査員が病室にやって来た。動けない、しゃべれない、ご飯も食べられない、寝たきりだ、当然排泄も自力ではできない……誰の目にもサービスの基準となる介護度は明らかだった。「要介護5」の通知はそれから3週間後に自宅に届いた。

 いうまでもなく要介護5は、1~5の5段階に分かれる介護度の中でも最も重度に当たる。介護保険から支給されるサービス利用の限度額がいちばん高く(36万2170円/月)、最も手厚いサービスが受けられる。自己負担割合は1割だから、3万6217円の枠内でいろんなサービスを組み合わせて使えるのだ。

 在宅のサービスには、訪問介護(ホームヘルパーが家に来て、食事の介助や調理などをしてくれる)、訪問看護(看護師が家に来て、病状観察やおむつ交換などをする)、訪問入浴介護(家にバスタブを運び入れ、もしくは入浴車を提供してお風呂に入れてくれる)、訪問リハビリ(理学療法士が家に来てリハビリを行う)、さらには通所介護(デイサービスセンターで、食事・入浴・機能訓練などを日帰りで受ける)などがある。要介護度が2とか3で介護保険からの支給額が少なく、必要なサービスが受けられないという人の話をよく聞く。大変申し訳ないが、ウチの場合、贅沢に使えすぎるがためにかえって困ってしまった。

 なんせ、家で四六時中女房の面倒をみるのは初めての体験だ。実際に「在宅」を始めてみなければ、「介護の専門家に何を手伝ってほしいのか」「どんな肉体的・精神負担が私にのしかかってくるのか」が分からない。早い話、われわれには子どもがいないので、おむつ交換すら初体験なのである。それなのに、「どんなサービスが週に何日必要なのか事前に考えて」と言われても無理な話である。

 そこで、ケアマネジャーに試案を出してもらうことにした。

「ヘルパーはどうしましょう」と聞かれたが、これは要らないと即答した。掃除や身辺の雑務は、ほぼ1日中家にいる私がやればよい。訪問看護は週3回(1回の自己負担約600円)の提案を週2回に。お風呂は週2回を週1回にしてもらった。介護を始めれば見えない出費も出てくるだろうし、お風呂は1回の自己負担額が1300円超と割高だったのが気になった。

「もし足りなければ増やせばいいし、不要なら後からカットすればいいですから」というケアマネの助言もあって、ケアプランには最初からかなり自分の意見を入れさせてもらった。自己負担額は1万8千円強で、使えるサービス量の半分に過ぎない、でも、今振り返ってみても、このときの素人判断は的を射ていたと思う。1年半後の今、途中からリハビリを入れたくらいでベースとなるケアプランに変化はない。

 さて、こうして介護保険の利用が許され、要介護度も決まり、どんなサービスを受けるかのメニューも確定した。手回しがよかったから、女房が茂原の病院に転院して1週間くらいで、あらかたの準備ができていた。

 大学病院からローカルの高齢者に特化した病院に移ると、不思議なことに彼女の容態はみるみる快方に向かった。目を開いている時間が多くなり、痰はほとんど出なくなり、見舞いの帰りに声をかけると小さくうなずくまでに回復した。なまじ医療処置をせずに放っておいた方がよかったのではと勘繰ったほどである。

 家で看取るという覚悟を決めていた私は、うれしいのはもちろんだが半信半疑でいた。「事態急変」の4文字が頭を離れなかったのである。

 ここだけの話、葬儀社の手配も済ませていた。救急入院した千葉大学病院のICUでしばらく意識が戻らなかったころ、私の頭の中では6対4で死が勝っていたのだ。インターネットで家族葬を調べたところ40万円台で可能という。新幹線予約じゃあるまいし、なんと「早割り」という割引プランがあったのにはおったまげた。事前に申し込むと葬儀代金が最大7万1千円割引になる。「死を予約する…。世の中ここまで来たか」とあきれ返り、失笑し、もちろん腹立たしさも覚えた。しかしその翌日、念のためしっかり申し込んでいる自分がいた。

 あとは安定を待って在宅介護の許可を得るのみと、担当医師にも意思表示をしたのだが、ここでもう一つ肝心なことを忘れていた。「在宅」の司令塔となる医師がまだ決まっていなかったのである。これが思いのほか難題で、退院する1週間くらい前までもつれたのだった。

平尾俊郎:1952(昭和27)年横浜市生まれ。明治大学卒業。企業広報誌等の編集を経てフリーライターとして独立。著書に『二十年後 くらしの未来図』ほか。

2020年6月18日掲載

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