ジョージアから「連れ去られた人々」を追って――イラン・フーゼスターン紀行(4)

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 2019年3月、不思議な縁に導かれてイラン南西部フーゼスターン地方を訪れ、当地の豊かな歴史遺産を巡った。デズフールとスーサ(現シューシュ)を回って最後に訪れたのが、シューシュタルである。

シューシュタルを治めたジョージア武人

 シューシュタルは、筆者が専門とする近世、とりわけ17世紀では、フーゼスターン北部の要の都市であった。

 ムシャッシャイヤ(モシャッシャイヤーン)朝という独自の地域政権が成立しており、当初は同じシーア派の新興勢力であったサファヴィー帝国と抗争を繰り広げていたが、やがて後者が地域に覇権を確立すると、これに従属した。

 そして17世紀初頭、現在のフーゼスターン北部に当たる地域がサファヴィー帝国の直接支配下に入り、ムシャッシャイヤの世襲君候に対する前線基地の役割を果たすことになった。その地域の知事職を17世紀半ばから約1世紀務めたのが、ジョージア(グルジア)系の武人エリートである。

 筆者はペルシア語とジョージア語の歴史史料を用いて、サファヴィー帝国のシャー(王)に仕えたジョージアなどコーカサス出身の武人集団の活動を追ってきた。

 その研究成果がジョージア語に翻訳され、イランに現在も住むジョージア人達に伝えられ、フーゼスターン北部を支配したジョージア系武人の子孫と考えられる集団から招待を受けたことで実現したのが、今回の旅であった。

 400年前、サファヴィー帝国南西の灼熱の地を治めたジョージア武人とは何者であったのだろうか。

サファヴィー帝国で活躍した3兄弟

 今回の旅の本当の主役は、ヴァフシュティ・ハーンという人物である。

 17世紀以降、ジョージア出身の軍人がサファヴィー帝国の宮廷で重きをなしていた。その中でも特に目立った活躍を見せたのが、オタル、ヴァフシュティ、ゴルジャスビの3兄弟である。

 長兄オタルは現在のアフガニスタンの主要都市であるカンダハール(古のガンダーラ)の総督を務めた。次兄ヴァフシュティは南西部の辺境であるシューシュタルの知事となり、末弟のゴルジャスビは「マンスール」(勝利)の名を与えられ、帝国北部の最重要都市で最初の都が置かれたタブリーズの総督にまで栄達を遂げた。

 すなわちサファヴィー帝国の主要国境地域を、時期は多少前後するが、3兄弟で占めたのであった。

 興味深いのは3兄弟の中ではもっとも地味な経歴であるヴァフシュティの子孫の繁栄ぶりである。ヴァフシュティ以降、約1世紀にわたってその直系がシューシュタルを支配する一方、子孫から帝国中央の主要武官職保有者を輩出した。

 この3兄弟の「身元」をペルシア語とジョージア語資料に基づいて筆者が明らかにしたのは、もう20年以上前になる。詳しくは木村崇他編『カフカース』(彩流社、2006年)収録の拙稿「忘れられた歴史と二つの系図が交差するところ――アフガニスタンのグルジア人」を参照されたい。

邸宅レストランでの昼食

 果たしてヴァフシュティ・ハーンが統べたシューシュタルは、デズフール同様に川のほとりの美しい街であった。

 到着後、中庭付きの落ち着いた邸宅で昼食をとった。「モストウフィー(財務官)の館」と呼ばれる土地の名士の住家を改造したレストランである。今回の旅行では、イランの歴史観光地としての力をあらためて認識した。

 きちんと個室が用意され、土地の料理を中心に次々と大皿の食事が運び込まれてきた。写真にあるように、肉料理の他にも、煮込み、乳製品、魚料理など様々であり、いずれもたいへん美味であった。

 個室は古い家具で飾られ、建物内の地下は小さな博物館になっている。

 昼食後には中庭に出て皆でくつろいだ。コナールと呼ばれる土地を代表する大木が日差しを遮り、乾燥しているために木陰は非常にすずしい。1年の内で1番いい時期ののどかな地方都市の風情は格別である。

 デズフールに続いてカールーン川に架かる橋がよく見える。シューシュタルの橋も古来有名で、その名も「カエサルの橋」という。由来はローマ帝国の捕虜を使役して造らせたためといわれる。今回その足跡を追っていたヴァフシュティ・ハーンも幾度となく軍勢を率いて渡ったことであろう。水浴びをする水牛の群れの姿がよく見えた。

ヴァフシュティ・ハーンの碑文

 昼食後は、ヴァフシュティ・ハーンの墓地がかつて存在した場所を見学に訪れた。といっても、更地にされてしまい、しかも高い塀に囲まれていて中には入れなかった。イラン革命後の混乱が関係しているようだったが、現在形の話のようであまり立ち入ることができなかった。この辺りは現地調査の限界でもある。

 それでも、隣接するモスクの中庭には入ることができた。そこで地元の歴史家の話を聞いたのだが、ヴァフシュティの名前を出すと、近くの別のモスクに碑文が残されているという。

 今回、筆者を招待してくれたゲゼルバーシャーン氏も初めて聞くモスクである。

 落胆は一転、興奮に変わった。日も暮れようとする中、急いで件のモスクに向かった。小さな、いかにも地元に根付いている風情である。入り口は狭いが敷地はそれなりに広い。

 建物の中に入ると、正面の柱に小さな碑文が埋め込まれていた。ペルシア語で書かれており、詩の形をとって、アッバース2世の御代(1642~1666年)、そしてヴァフシュティの統治時代にモスクが建設されたことを伝えている。

 興味深いことに、この縁起には「ヴァヒシュトゥー」と記されていた。土地での彼の呼び方であろう。ちなみにこの名前は現在のジョージアでも見られるが、もともとは古代イラン語で「天国」を意味していた。

 日暮れのモスクで、はるばるジョージアからイランに渡って土地に名を刻まれたヴァフシュティ・ハーンとの邂逅を楽しんだ。  

シューシュタルの文化遺産

 この日は事実上の現地最終日であったが、驚くべきことに今は小さな地方都市に過ぎないシューシュタルには、様々な文化遺産が詰まっていた。2009年、シューシュタルに保存されている水利施設は、「シューシュタルの歴史的水利施設」としてユネスコの世界遺産に登録されている。

 幸い暑い地域の夜は長く、そして心地よい。施設は、水車による製粉場の展示など、内部もちょっとした博物館になっている。往時には46機もの水車が稼働していたという。また、1941年にはイランで2番目の水力発電所も設けられたという。

 何よりも四方から瀧のように水が噴き出すその様はとても幻想的な光景であった。

 この水利施設は相当な規模のようで、実際には、やはりカエサルの名がついたダムなど、古代から伝わる巨大な施設のごく一部を見たに過ぎない。イランの中では例外的に豊富な水に恵まれたフーゼスターンの土地の持つ力を旅の終わりに強く感じることになった。

 この水利施設の後にももう1つ、旧跡を巡ることができた。ヴァフシュティ・ハーンの子孫に縁あるモスクはすでに閉まっていたのだが、隣接するシューシュタルの古城遺跡は幸いなことに入ることができた。公園のようになっており、管理人が特別に入場を許可してくれたのであった。

 かつてヴァフシュティ・ハーンも居城を構えた場所である。まずは城砦跡まで少し上ったが、ほとんど遺構は残っていなかった。もっとも、高所から眺めるカールーン川の光景は格別であった。城砦を川に隣接して造ることで、物資の補給や脱出などで利用できるようになっていたのであろう。

 しばし、ヴァフシュティ・ハーンが眺めたのと同じ光景の、その静かな佇まいに酔いしれた。

 敷地内には地下の遺跡もあり、地上のものよりもよく残っていた。そもそも暑さを凌ぐための地下施設が一般的な地域である。防御の役割も果たしていたのであろう。

 何カ所か地下に降りることができるようになっていたが、地下道は城砦の外につながっているとのことであった。偶然であるが夜間の見学となったこともあり、これもまた非常に幻想的な光景であった。

強く感じた共時性

 シューシュタルからアフヴァーズに戻る道中、地元で有名なアイスクリーム店に立ち寄った。アルコールがない分、甘いものに皆、目がない。ちょうどフーゼスターンを南北に貫く街道の中間地点にアイスクリーム店が軒を連ねていた。地元の人に案内してもらうと、こうした楽しみがある。

 当たり前だが、イランでも普通に地域経済が発展しており、街道沿いの街がそれぞれ独自の進化をとげているのだ。この辺りは日本の地方と変わらないであろう。 

 シューシュタルで見かけたポスターも興味深かった。ペルシア語で『映像と写真のアトリエ(スタジオ)「ロマンチック」』と記されている。左下にはローマ字で「Romanticstudio20」と記されているが、チェーン店だろうか。いずれにしても、日本の郊外の国道沿いの光景とそれほど変わらないように思える。

 テヘランで見た市街の賑やかさや地下鉄の混雑ぶり、ファーストフード店の人気ぶりなども、日本と大差ない。

 久しぶりにイランの地方まで足を延ばしたが、共時性を強く感じた。

 今から考えれば、地下鉄のひどい混み方は新型コロナウイルスで大きな負の影響を与えたのではないだろうか。

 さて、アフヴァーズから空路テヘランに戻り、テヘラン大学の歴史学科で講演も行った。

 高名な歴史学者であるマンスール・セファットゴル教授は、着任以来、中央アジアやコーカサスの歴史を研究する重要性を唱えてきたと強調する。ロシア語を理解するラシュティヤーニー教授など、若い世代の研究者とも親交を温めることができた。

 この旅では、はるばるイラン南西部に400年前に移住したジョージア人の痕跡を辿った。期せずしてユーラシアの広大な地図に散らばる様々な記憶の欠片を拾い集めていく中で、高校生の頃に憧れた古代エラム文明の中心地まで至った。この点は個人的にも非常に感慨深かった。

 滞在中は新たな情報にも多く触れ、その歴史像に新たな着想も得た。新型コロナウイルスが蔓延する現在、彼の地の訪問はままならないが、時代を巡る旅を続けて、いつの日か再訪する日を待ちたい。

前田弘毅
東京都立大学人文社会学部教授。プリンストン大学近東学部客研究員。1971年、東京生まれ。東京大学文学部東洋史学科卒業、同大学大学院人文社会系研究科博士課程修了、博士(文学)。大学院在籍中にグルジア科学アカデミー東洋学研究所に留学。北海道大学講師・客員准教授、大阪大学特任助教・招へい准教授、首都大学東京都市教養学部准教授などを経て、2018年より現職。著書に『多様性と可能性のコーカサス』(編著、北海道大学出版会)、『ユーラシア世界1』(共著、東京大学出版会)、『黒海の歴史』(監訳)『コーカサスを知るための60章』(編著)『イスラーム世界の奴隷軍人とその実像』(ともに明石書店)、『グルジア現代史』(東洋書店)など。ブログはこちら【https://www.hmaeda-tmu.com/】。

Foresight 2020年6月16日掲載

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