美智子上皇后は義弟の姉、テレビプロデューサー「大原れいこ」の華麗なる交流

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小澤は大原の肩を抱いてねぎらったが

 2001年、71歳で萩元晴彦はこの世を去る。ホールのオープンの際に総合プロデューサーを務めるなど萩元ゆかりのお茶の水カザルス・ホール(2010年閉館)での特別音楽葬が執り行われた。演出は大原れいこだった。「ここまでクラシックの番組を続けてこられたのは、萩さんのおかげだった。イツァーク・パールマンさん、アルゲリッチさん、エッシェンバッハさん。それと、チェロのロストロポーヴィチさん。番組を通して大勢の人に会わせてくれた」としばしば萩元への恩を伝える大原だった。

 音楽葬では小澤征爾が今井信子(ビオラ)、堀米ゆず子(バイオリン)らの弦楽を指揮し、後輩の井上道義とともに新日本フィルにもタクトを振った。音楽葬が終わると、「大原さん、僕が死んだらこういう葬式をしてほしいな」と小澤は大原の肩を抱いてねぎらったが、残念ながら大原は今年4月、先に逝った。

「大原さんは継続中の仕事もあり、交友関係も広くて、お孫さんを可愛がったり、楽しく過ごされていました。クラシックのコンサートにも足を運んで。3年ほど前だったかしら、一緒にご飯を食べながら、体のあちこちが痛いとこぼされていた。原因はわからなくてね。順天堂でしたか、そこでCTで脳をスキャンしたらその場で入院、手術になったんです。2年ほど前のことです」

 大原れいこと坂元良江。TBSからテレビマンユニオン、60年代の放送黎明期からテレビを支えた2人は放送にまつわる賞も数多くとり、後進も育てた。

「大原さんはグルメだったけど、食いしん坊ではなかった。着るものもフェミニンでした。柔らかく、優しい感じ」

 盟友・大原との思い出を語った坂元は思い返したように腕時計を見、「そろそろ」とショルダーバッグに手帳をしまった。

 僕の勤めるFM局にはクラシック専用に造られたホールがある。

「せっかくですから、ご覧になりますか? 音響もなかなかと言われるんですよ」

 帰りしな、局舎のある皇居・半蔵門の音楽ホールに案内すると坂元の表情がパッと明るくなった。ホールのあちこちを見ながら、「そういえば、大原さんはフォルクスワーゲンの後部座席にチェロを積んでいたこともあったのよ」と微笑んだ。

 チェロといえば、スペインの音楽家パブロ・カザルス。10年前、彼女は恩人の萩元晴彦が憧憬していたこの巨匠の名前を冠したホールでの音楽葬を演出した。その風景が浮かび、弦楽の響きがどこからから聴こえてくるような気がした。

延江浩
1958年東京生。慶応義塾大学文学部卒。TOKYO FM『村上RADIO』ゼネラルプロデューサー。作家。小説現代新人賞。主な著書に『アタシはジュース』(集英社文庫)、『いつか晴れるかな 大鹿村騒動記』(ポプラ文庫)、『愛国とノーサイド』(講談社)、企画・編纂として『井上陽水英訳詞集』(ロバート キャンベル著/講談社 ミュージック・ペンクラブ音楽賞受賞)。最新刊は『小林麻美 第二幕/朝日新聞出版』連載:「週刊朝日」「銀座百点」「JAL SKYWARD」 ABU(アジア太平洋放送連合)賞ドキュメンタリー部門グランプリ、日本放送文化大賞グランプリ、ギャラクシー大賞。

週刊新潮WEB取材班編集

2020年6月14日掲載

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