ジョージアから「連れ去られた人々」を追って――イラン・フーゼスターン紀行(3)
前回はイラン南西部「フーゼスターン紀行」の番外編として、コロナ禍に見舞われる直前の米プリンストン大学における「イラン体験」について記した(2020年5月21日『米プリンストン大学での「イラン」体験――イラン・フーゼスターン紀行(番外編)』)。同じ年にイランとアメリカを訪れることが出来るのは、日本人研究者の1つの特権とも言えよう。
時間が経ってしまったが、今回はフーゼスターン紀行の続編をお届けしたい。
全2回は、こちらをご参照。
ジョージアから「連れ去られた人々」を追って――イラン・フーゼスターン紀行(1)(2019年6月3日)
ジョージアから「連れ去られた人々」を追って――イラン・フーゼスターン紀行(2)(2019年6月19日)
「宗派の坩堝」である中東の縮図
(1)では、フーゼスターンの州都アフヴァーズについて紹介した。
フーゼスターンはイランの原油生産の中心地であり、イラクとの境にあるためにイラン・イラク戦争では甚大な被害を受けた。現代イラン史を考える上で極めて重要な地域である。テヘランからの直行便も数多く飛んでいる[地図再掲]。
(2)では、400年前にジョージアからイランに渡った武人とその子孫に会いに、北部フーゼスターンの中心都市デズフールを訪問した時のことを記した。
デズフールは古代ペルシア帝国縁の古い街である。市民文化センターでの講演の後に訪れた活気溢れる伝統的なバーザールと、すぐ傍にありながら静謐な雰囲気を湛える聖者廟の静けさは対照的であった。
今回は引き続き北部フーゼスターンの魅力溢れる文化遺産について紹介していきたい。
この地域は、古代メソポタミア文明や人類史上最初の世界帝国とも言われるハカーマニシュ(アケメネス)朝ペルシア帝国、サーサーン朝ペルシア帝国、さらにはローマ帝国などにも縁ある、多くの文化遺産を有する。
また、その歴史を見ていくと、少数派キリスト教徒などの様々な少数派の人びとが、多彩な活動を繰り広げてきたことに、あらためて驚かされる。
まさに「宗派の坩堝」である中東の縮図なのだ。
古代エラム文明の都スーサ
デズフールに続いて訪れたのがシューシュという街である。古名はスーサという。
個人的な話で恐縮だが、スーサ訪問は30年来の夢だった。
エラム文明(紀元前3200年頃~紀元前539年)という不思議な響きの古代文明に、高校生の頃から憧れていた。
当時、新バビロニア王国(紀元前625~紀元前539年)に関する本などを読み、第2代の王で領土をシリア、パレスチナまで拡大したネブカドネザル2世や最後の王ナボニドス、月神の神殿、空中庭園などの逸話に夢中になった。
しかし、なぜか最も惹かれたのが謎めいたエラム文明であり、スーサはその本拠であった。いわゆる古代メソポタミア文明の中核地域(ウル、ウルク、バビロンなど)から少し離れて、ザグロス山脈の縁に位置しており、「辺境感」が漂う。不思議なもので、人の好みは変わらないようだ。
実は他の日程が詰まっており、スーサ訪問は駆け足となった。フーゼスターン訪問の中心的課題は中編で紹介した通り、ジョージア人の子孫を訪ねることであったため、こちらが強く願い出なければ、危うく通過するところであった。
私を招いてくれた地元フーゼスターン出身の友人は、小学校の時に家族と訪れて以来のスーサ訪問だったという。地元の人にとっては単なる郷里の歴史観光スポットに違いない。あらためて「異国の空」を想う。
古代城砦跡にある博物館
スーサの博物館は大きなものではないが、やはりエラム文明と古代ペルシア帝国の遺産を本場で見ることが出来る喜びは格別である。古代メソポタミアの聖塔「ジッグラト」の復元想像図も、興味深かった。
ちなみにスーサ近くには、イランで初めてユネスコ世界遺産に指定されたチョガ・ザンビール遺跡が存在する。
古代メソポタミア(現イラク)に隣接するフーゼスターンは、歴史の古いイランの中でもとりわけ古代文明関連の遺産の宝庫なのである。
博物館も古代城砦跡にあり、敷地内では、かつての宮殿跡に無造作に彫像などが置かれていた。その傍らに草が生えていたのだが、そのまま食すことも可能であり、油で炒めるとほうれん草の炒め物のようで美味という。春に雨が降ると生えてくるということで、この地域では短い春の象徴でもあるそうだ。
地元の人と散策するといろいろと興味深く、またフーゼスターンの自然の恵みも知って、これもまた時間の流れを超えて歴史に触れる経験だった。
前編でも記したが、真夏は50度を超えるという灼熱の地域であり、そう言えばデズフールで訪ねたジョージア人の子孫の家庭には、ランニングマシーンが置かれていた。一日中クーラーをガンガンつけるそうである。
この辺りは資源国と産油地域の強みとも言える。
伝ダニエル廟の尖塔
さて、歴史の舞台としてのスーサは、何よりもアレクサンドロス大王が開いた合同結婚式で名高い。
ギリシアの辺境地域から出て、広大なペルシア帝国を滅ぼし、はるばるインドまで遠征した希代の大征服者は、まさにこの地で、マケドニア王国の貴族とペルシア帝国など征服した地域の高官の娘との合同結婚式を催したのである。それは、彼の死のわずか1年前、紀元前324年のことであった。
もっとも、現地を訪れてより感じたのは、こうした「大きな」歴史よりも、むしろ中東史を彩る様々な「少数派」の目覚ましい活動であった。
古代神殿跡周辺を散策すると、小高い丘になっており、市内が一望できた。スーサの古城から見渡して最も目立つのが、独特の尖塔を有するダニエルの廟。これは旧約聖書の一書「ダニエル書」でも知られる、預言者ダニエルの墓とされている。
ライオンの穴の中に落とされるが危害を加えられずに助かった、長老達に不貞を密告されたスザンナを知恵で救ったなど、ダニエルに関する逸話や伝承は数多い。
ダニエルはコーランには登場しないが、預言者の1人としてムスリムの尊敬も集め、イラン・ユダヤ伝承で重要な位置を占めたという。スーサはギリシア人とペルシア人だけではなく、ユダヤ人にも縁のある街なのである。
現在の尖塔は1869年の洪水後に再建されたそうだが、ダニエルの墓の伝承は古いアラビア語地理書でも言及されるという。
アカデミアを支えた「少数派」
実はサーサーン帝国(226~651年)時代にスーサの近郊に存在した学術都市ジュンディーシャープール(ゴンデシャープール)は、キリスト教にも縁の深い街である。
ジュンディーシャープールは帝都クテシフォンなどと並ぶサーサーン帝国の中心地の1つであり、特に医学と哲学で名高い。
あまり知名度がないかもしれないが、「世界最古の大学」としてイランが世界に誇る、古代アカデミアを擁していた。デズフールの南東14キロに遺構が存在する。
アカデミアを支えたとされるのが、いわゆるシリア語文献を遺した少数派キリスト教徒である。
サーサーン帝国第2代王のシャープール1世は、ローマ帝国をたびたび破って地中海岸のアンティオキアまで制圧し、総主教をジュンディーシャープールに移した。紆余曲折を経て、サーサーン帝国の庇護下のキリスト教徒は、この地にギリシアの学統を伝えていった。
とりわけ6世紀に半世紀近くサーサーン帝国を率いたホスロー1世の庇護のもとで大きく発展したと言われる。ビザンツ帝国での迫害から逃れ、アテネからエデッサ、ニシビスへと東方へ移動を重ねた少数派キリスト教徒や、同じく迫害を受けていたギリシア哲学者などの知識人集団がこの地に集い、医学や哲学の文献のパフラヴィー語への翻訳活動を繰り広げたとされる。
ジュンディーシャープールに関してよく知られるのは、傑作寓話集『カリーラとディムナ』である。ホスロー1世の命を受けてインドまで旅した医師ブルズーヤによって、サンスクリット語からパフラヴィー語に翻訳されたとされる。その後、パフラヴィー語からシリア語に、シリア語からアラビア語に翻訳され、アラビア世界から中世ラテン世界にも広がったのであった。
極めて簡略化して述べれば、現在のフーゼスターン北部で、西方からギリシアの医学・哲学が伝来し、さらにインド方面からの学問や文学が移植されて融合し、それが後のイスラーム文明の隆盛に繋がった。
その象徴が、アッバース朝(750~1258年)時代のバグダードに建設された高名な図書館「知恵の館」である。
ちなみに、サーサーン帝国は、最盛期には周辺都市も合わせて10万人の人口を有していたとも言われる。現在のフーゼスターン北部では帝国初期から大規模な灌漑システムが発達し、産出する砂糖も有名だった。知的な交流のための経済的な基盤も存在したと言えるだろう。
「本家」を巡る争い
ただし、少数派の役割が軽んじられるのは、洋の東西を問わない。
少数派キリスト教徒に関する世界的権威である東京大学の高橋英海教授の論文「アレクサンドリアからバグダードへ」は、非常に興味深い。
教授は周知の事実として、古代ギリシアの文化遺産がアラビア語圏・イスラーム圏を経由して中世ラテン語圏にもたらされたことを記す。
ところが2000年代にフランスでは、このイスラーム圏の役割を無視するかのような書物が出版された。
そして教授は、こう記す。
〈これと類似した歴史の歪曲が一千年余り前のアッバース朝下のバグダードでも行われていた〉。
というのもアッバース朝では、ギリシアの学統は、アレクサンドロス大王が建設したヘレニズム文化の中心地アレクサンドリアから、彼の後継者が建てたセレウコス朝シリアのアンティオキアやハッラーンを経てバグダードにもたらされた、という主張が喧伝されていた。
そこには、ビザンツ帝国へのライバル意識から、自らをアレクサンドリアで行われていた学問の正統な後継者と位置づける主張が込められていた。
しかし高橋教授によれば、実際には、ギリシアの学問がバグダードに伝えられる過程では、シリア語を用いる少数派キリスト教徒が大きな役割を果たしていたのである。
どの時代にも「本家」を巡る人の争いが存在し、少数派は切り捨てられる。
ちなみに、ジュンディーシャープールに関する本格的な考古学調査は、1963年2月から3月にかけてシカゴ考古学研究所によって行われた。それはアメリカとイランが「蜜月の王制下」のことであった。
任侠集団を糾合した英傑
スーサから次の訪問先シューシュタルに向かう途中、9世紀にサッファール朝という王朝を建てた一代の英傑、ヤアクーブ・イブン・ライスの墓との伝承がある聖廟に立ち寄った(冒頭写真)。
一目で分かるように、伝ダニエル廟と同様の、独特の形をした尖塔を有している。
「サッファール」とは「銅細工師」を意味し、ヤアクーブも父の代から銅細工師として生計を立てていたという。
ヤアクーブはアッバース帝国の衰退に乗じて、出身地のイラン南東部シースターン地方の任侠(アイヤール)集団を糾合し、自らの政権を打ち立てた。そして、かつてサーサーン帝国の本拠が置かれていたファールス地方を押さえ、さらに東北に兵を転じてターヒル朝を滅ぼし、イラン東部ホラーサーン地方を掌握した。現在のイラン・アフガニスタンのほぼ全土とパキスタンやトルクメニスタンに至る広大な王朝を一代で築き上げた。
いわばイスラーム世界における成り上がり者の典型であるヤアクーブは、正統イスラーム帝国であるアッバース朝からの独立志向が強く、イランでは民族的な英雄と見なされている。イランのロビンフッドにもなぞらえられ、義賊の扱いも受けている。
サーサーン帝国に憧れたヤアクーブはジュンディーシャープールに首都を移そうとした。そのため、墓もフーゼスターンに存在するというわけである。
このイスラーム世界の任侠集団に注目したのが、筆者の東京大学の恩師に当たる故佐藤次高教授らによる『イスラム社会のヤクザ』(第三書館、1994年)である。同書が出版されたのは筆者が東大の学部生の時であった。
写真にもあるように、廟の内部はドームから美しく柔らかい光が降り注いでいた。
古代エラム人の都は、このようにアケメネス朝やサーサーン朝といったペルシア帝国の中核地域となっただけでなく、ビザンツ帝国を逃れた少数派キリスト教徒の拠点にもなり、インドからの文学も到来し、バグダード絶頂期の高度な文化の礎となった。
その名声は後の時代にも伝えられ、現在のイランにおいても、歴史への憧憬をとりわけかき立てる地域として位置付けられている。