「笑われる存在」を貫いた孤高の人 演劇研究者が語る「志村けん」の凄み
「笑われる存在」貫く
その日の東京は、閑散とした街並みに満開の桜と雪が舞っていた。夜半に志村けんさんが逝ってしまった。
日本中の多くの子どもたちが、彼のコントに笑い転げてきた。その一方で、私たちはどこか、大人になったら彼から「卒業」するものと思っていなかったか。実際、人気テレビ番組「ドリフ大爆笑」「志村けんのだいじょうぶだぁ」を見て育った私の同級生たちは、中学・高校に上がるにつれて「卒業」していった。
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今になって思う。彼の笑いは分かりやすいが、その凄(すご)みは分かりにくい。思春期を迎えると、尖(とが)った社会風刺やシュールなセンスに笑いの価値を見いだしがちだ。それに対して「マンネリを恐れるな」と語る志村さんは真逆の存在である。
私は、ザ・ドリフターズがその存在の大きさに対して、正当に評価されていないと感じてきた。今後は、その功績がテレビ史や音楽史などの文脈で語られるだろうが、ここでは演劇史のなかの「志村けん」を記そう。
舞台の「生中継」
通常、日本の演劇史にドリフは登場しない。だが「8時だョ!全員集合」は、バラエティー史に燦然(さんぜん)と輝くテレビ番組であると同時に、舞台の生中継だった。ドリフのメンバーは目の前の観客に向けてコントをしていたのであり、テレビカメラを意識するのは、オープニングの「8時だョ!」とエンディングの「歯磨けよ」「風邪ひくなよ」のときだけだった。
また、番組名物でもある「屋台崩し」や廻(まわ)り舞台も、歌舞伎の技術の応用だった。1970年代において、最も多くの日本人を楽しませた演劇は、歌舞伎でもアングラ演劇でもなくドリフなのであり、演劇史にも特筆されるべき存在なのだ。
そして、志村さんは「全員集合」終了後も、舞台に立つコメディアンとしての矜持(きょうじ)を持ち続けた。スタジオ収録のコントであっても、フロアの堅さを嫌い、必ず板を1枚敷いたという。芸の幅も広い。音楽が底辺にあって動きで笑わせる芸は、エノケン・ロッパに代表される東京の喜劇の水脈を引いているだろう。
その一方で、近年は藤山寛美への敬愛を語り、笑って泣ける松竹新喜劇の演目を上演していた。「だいじょうぶだぁ」でせりふのないシリアスドラマをつくったこともある彼は、泣かせる人情喜劇も芸域に入っている。それはまるで、日本の喜劇のいくつもの支流が「志村けん」という大河に流れ込んでいるかのようだ。
名優からも畏敬
舞台出身の俳優は、そんな彼の凄さをとうから知っていた。文学座の故太地喜和子さんは、座員に対して「だいじょうぶだぁ」のコントを演技の手本に見せていたというし、柄本明さんは共演することを「怖い」と語っている。志村さんは、数々の名優にも畏敬される存在だった。
にもかかわらず、志村さんはテレビの前の私たちに、自らを偉大な存在に見せなかった。「文化人」になることなく、いつも「バカ殿」であり「変なおじさん」だった。80年代以降、日本のお笑い芸人は「笑われる存在」から「笑わせる存在」になることで、社会的地位を向上させてきたと思う。そのこと自体は、笑いの評価が低すぎたからであり、当然のことだ。だが、志村さんは、頑(かたく)ななまでに「笑われる存在」にとどまろうとした。20年前の雑誌インタビューで、彼は次のように語っている。
「素人いじってるような企画自体は、個人的には好きじゃないの。芸人として自分が笑われるのはいい。でも、他人を笑うのは好きじゃない。オレが笑われている部分では害がないじゃない」
いつしか、志村さんは孤高の人になっていた。それは、自ら求めたというよりも、周囲が変化していくなかで信念を貫き通した結果だろう。代わりになる人は誰もいないのだ。その厳然たる事実を胸に、今はただ、残された映像を観(み)て志村けんを笑いたい。