香港「国家安全法」でも見えた「政治+経済VS.民意」という不変構造

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 香港という「金の卵を産む鶏」の首は、いま何本かの手で掴まれている。

 そこにはドナルド・トランプ米大統領も、過激な街頭行動で反中・民主化を訴える香港の若者も加わっている。

 もちろん最も強い力で掴んでいるのが中国の習近平政権だが、このまま力を加え続けるなら、鶏は窒息してしまう。かりに習政権が握っている力を緩め、あるいは手を離したとしても、瀕死の鶏を救う道は簡単には見つからないだろう。

 1年前に激発した反「逃亡犯条例改正案」運動、いや2014年秋の「雨傘革命」から始まった反中・民主化運動の一方、5月28日の全国人民代表大会(中国の国会に相当)における「香港版国家安全法」制定方針決定から、6月4日の香港立法会(議会)における国歌条例案(中国国歌への侮辱行為を禁ずる)の可決に至るまでの一連の中国・香港政府の動きを振り返るなら、民主化だけが瀕死の鶏を救える唯一無二の“特効薬”になるとも思えない。

常に受け身の立場

 香港は内外二重構造の上に成り立っていると考えられる。1842年の南京条約で清国から切り離され、イギリス殖民地となって以来、香港が背負わざるを得なかった宿命だろう。昔も今も住民の意思にかかわりなく、香港以外の力によって運命づけられてきた。いわば香港は、一貫して自らの意思で自らの進路を定めることができないのだ。

 だが、そのことが香港に「金の卵を産む鶏」の役割を与え続けたとも言える。この構造は基本的には現在も変わってはいない。

 たとえば第2次大戦終結時、日本軍の占領から解かれたものの、香港はイギリス殖民地に引き戻さてしまう。香港住民の意思はアメリカ、イギリス、ソ連の戦勝国が振り回す大国エゴの前には無力だったのだ。戦勝国の仲間入りをしていたとはいえ、蔣介石に率いられていた中国(中華民国)に3大国を動かす力があろうはずもなかった。

 1997年の香港返還は、北京とロンドンの両者間の政治力学によって決定された。返還に向けて行われた一連の外交交渉は香港住民の頭越しで進められ、自らの利益を最優先するロンドンは、香港住民の意思を半ば無視した。極論するなら、香港は体よく北京に投げ売りされたようなものだ。

 中華人民共和国特別行政区となった現在の香港の進路を大きく定めるのは、中国、アメリカやイギリスなど香港に強い利害関係を持つ国々、加えるに香港それ自身の3者だろう。

 米中対立激化一途の現在の国際環境において、3者の利害関係が一致する道を探ることは容易ではない。もちろん極めて弱く、常に受け身の立場に置かれる香港が米中双方を相手に回し、自らの意思を貫くことは不可能と言うべきであり、米中双方も香港独自の行動を許しはしないだろう。

 米中対立の荒波から逃れ、香港が自らの意思で将来を定める術は、やはり見つかりそうにない。

政治と経済の「双赢関係」

 香港の運命は、以上の3者とは異なった構造によっても左右される。

 中央政府とその下請けとしての香港政府(政治)、企業家(経済)、一般民衆(民意)の3者だが、ここでも3者の利害が一致することはない。顕著な一例が民主化である。

 社会の安定と中華人民共和国としての一体化を掲げる政治は、「一国両制」における「高度な自治」を求める民意を圧殺する。やはり政治(独裁)と民意(自由)が同一歩調を取ることはあり得ないのだ。

 世界に冠たる格差社会を産み出す土地本位制の経済構造(「地産覇権」)、巨大不動産業者が社会全般に大きな影響力を行使する権力構造(「財閥独裁」)は、政治と経済の「双赢(ウィン・ウィン)関係」によって支えられてきた。

 民意が求める民主化が政治と経済の相互扶助・補完関係を切り崩しかねない破壊力を秘めているゆえに、民主化は容易に進展しない。「政治」と「経済」は、民主化によって不利益を被ることを知るからこそ、民意の暴発・拡大を望むわけがない。

新たな殖民地の別の表現

 こう見ると香港社会の構造は、魯迅の目に映った1927年のイギリス殖民地当時のそれと大差ないように思える。

〈香港はチッポケな一つの島でしかないのに、中国のいろいろな土地の、現在と将来の縮図をそのままに描き出す。中央には幾人かの西洋のご主人サマがいて、若干のおべんちゃら使いの『高等華人』とお先棒担ぎの奴隷のような同胞の一群がいる。それ以外の凡てはひたすら苦しみに耐えている『土地の人(原文は「土人」)』だ。苦労に耐えられる者は西洋植民地で死に、耐えられない者は深い山へと逃げ込む(一九二七年)九月二十九之夜、海上〉(『而已集』人民出版社 1973年)

 魯迅が目にした「幾人かの西洋のご主人サマ」を北京の中央政府に、「若干のおべんちゃら使いの『高等華人』」を林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官以下の香港政府官僚や親北京の立法会議員、メディアに、「お先棒担ぎの奴隷のような同胞の一群」を企業家に置き換えるなら、イギリス殖民地であろうが中華人民共和国特別行政区であろうが、香港社会の基本構造は同じだ。

 であるとするなら「特別行政区」は、新たな殖民地の別の表現に過ぎないだろう。

 魯迅が歩いた時代と現在の違いを敢えて挙げるとするなら、現在の「ひたすら苦しみに耐えてい」た「土地の人」は、「深い山へと逃げ込む」ような消極的な道を選ばない。積極姿勢に転じ、自らを「香港人」と思い定め、自らの声を上げ始めたのである。

 だが、新たに中国からやって来た身分不安定な人々の存在も忘れてはならない。これらの人々は香港に住み香港の社会生活を下支えしているものの、「香港人」になれそうにないのだ。

「香港人」は、人民元を手に香港にやって来て、非文明的で傲慢極まりない振る舞いを見せる「大陸客(ちゅうごくじん)」を蔑み嫌う。共産党独裁政権下の「大陸(ちゅうごく)」で生きてきた人々は、自由で豊かな生活を享受していると思い込んで、香港の人々を羨みながらも憎む。

 香港に凝縮され絡み合った矛盾の数々を一瞬のうちに解きほぐす方法は、簡単には見つからない。たとえそれが民主化であれ独立であれ、である。

香港社会を取り仕切る「経政家」

 殖民地では、政治家という職業は一貫してありえなかった。

 イギリスの殖民地政策の柱であった経済の自由放任体制(レッセフェール)によって力を蓄えた企業家は、殖民地政府(政庁)の行政全般を補完する一方で、香港社会に対する影響力を強めた。政庁による政治が自らのビジネスに直結していたのである。経済人でありながら政治に手を染める、敢えて「経政家」とも呼べるような一群の企業家が、宗主国における政治の中心であるロンドンを注視しつつ、香港社会を取り仕切っていた。

 この構造は現在の香港でも大差はない。

 であればこそ、中華人民共和国特別行政区となった現在も、彼らは神経を尖らせ、北京の中央政府の動向を窺う。

 中国政府主導で返還交渉が進んでいた1980年代半ば、彼らは返還後の“香港のかたち”を探るべく北京に赴いた。鄧小平から「一国両制」「香港の50年間不変」を告げられたことで、「過渡期」と呼ばれた1997年の返還まで十数年の間、彼らは共産党政権主導の返還作業に全面協力の姿勢を示した。

 もちろん、その背景に中国市場における企業活動に対する様々な“恩典”があったことは言うまでもない。魚心あれば水心、である。

 彼らは特区行政長官選挙に当たっても、初代の董建華から現在の林鄭月娥まで、その時々の中央政権による“公認候補”を常に支持してきた。

 2014年秋の「雨傘革命」に際しても、彼らはいち早く中央政府支持を表明している。若者が街頭での直接行動に訴える直前、企業家トップの李嘉誠を筆頭に七十数名からなる「香港工商専業訪京団」を組織し、大挙して北京に赴き、習国家主席に“恭順の意”を示したのだ(2019年6月18日『香港「民主化」のカギを握る「北京」「経政家」の蜜月関係』参照)。

 政治と経済とが手を握った以上、民意の、しかもその一部である若者たちの街頭行動が頓挫することは、始まる前から運命づけられたも同じだった。

 いわば経済は民意ではなく政治を選んだ。「香港人」としての立場ではなくビジネスを、より端的に表現するならファミリー・ビジネスを優先した。

中央政府支持を表明した企業家たち

 昨年6月以来の激しい街頭行動を伴った一連の反中・民主化運動に対し、企業家は大勢として沈黙を守った。

「雨傘革命」の際には積極姿勢を見せた李嘉誠だったが、2019年8月に新聞各紙に曖昧な意見広告――習政権を牽制しているとも、あるいは激しい街頭行動を諌めているとも受け取れる――を出したままであった。まだ「風険投資(ハイリスク・ハイリターン)」に踏み切る時期ではないと、洞ヶ峠を決め込んでいたのかもしれない(2019年9月18日 『香港デモを「破れかぶれ」にする絶望的「社会矛盾」』参照)。

 だが、今回の「香港版国家安全法」に端を発した香港の混乱を前に、李嘉誠ら企業家は相次いで態度を表明したのである。

「香港版国家安全法」制定方針決定前日の5月27日、中国系紙『文匯報』『大公報』において、李嘉誠は以下のように語っている。

「どの国も国家の安全問題に責任を持つ。だから法案を深読みするべきではない。法案通過によって香港に対する中央政府の疑念を解き、香港人の『一国両制』に対する信頼度を固めるべきだ。愛国愛香港の商人としての責任を果たす」

 李嘉誠が態度を表明する以前、「地産覇権」「財閥治港」の中核を演じている4大不動産企業集団総帥――李澤鉅「長実集団」主席(李嘉誠の長男、「全国政治協商会議」常務委員)、郭炳聯「新地集団」主席(「全国政治協商会議」委員)、李家傑「恒基兆業集団」主席(「全国政治協商会議」常務委員)、鄭家純「新世界集団」主席――も、前後して中央政府の方針支持を打ち出し、「香港版国家安全法」が香港の安定と「一国両制」の確立に寄与し、国際金融センターとしての香港の地位を強固にするとの考えを表明した。

 香港経済を牛耳る企業家たちが相次ぐ態度表明に至った背景として、彼らと習政権の間でどのような“取り引き”があったのかは不明だ。

 だが、これで昨年6月の「逃亡犯条例」反対運動以来、分断・混乱を見せていた香港社会が、「政治+経済vs.民意」という構図に収斂したことになる。

 もちろん民意は全体として反中基調にあるだろうが、必ずしも民主化で固まっているとも思えない。日頃から激しい共産党批判を口にしていた友人から届いたメールの行間には、悲しみと諦めにも似た思いが滲んでいた。

強硬姿勢を取るアメリカとイギリス

 新型コロナウイルス問題への取り組みに関する不信感も重なって、欧米諸国は香港に強権を揮う習政権への不信感・反発を強めている。激化する米中対決を背景に、トランプ大統領は強硬な反中姿勢を見せ、G7(先進7カ国)を軸に中国包囲網造りを狙う一方、香港に与えていた関税や渡航の優遇措置の解除を持ち出した。

 だが、中国包囲網の構築は容易ではないだろう。

 6月7日付の『共同通信』は、ワシントン発として「香港版国家安全法」の法制化を巡って中国政府を厳しく批判するアメリカやイギリスなどから共同声明への参加を打診された安倍晋三政権が、拒否していたことを伝えている。

 トランプ大統領は香港に与えていた税制上の優遇措置撤廃を掲げるが、香港には8.5万人余のアメリカ人が住み、1300社を超えるアメリカ有力企業が活動し、そのうちの290社余の巨大企業がアジアの拠点を置く。香港経済に打撃を与えることは、直ちにアメリカに跳ね返ってくる。

 黒人差別問題に端を発するドタバタ手法によって露呈した政権基盤の脆弱さと目前の大統領選挙が、トランプ大統領の手足を縛る。

 一歩誤れば「回帰不能点(ポイント・オブ・ノーリターン)」を超えかねない、肉を切らせて骨を断つような強硬政策は、さすがに執れないだろう。

 5月末、香港島の高級住宅地にあるアメリカ総領事館関連施設が100億香港ドルで売り出された。アメリカ政府による香港脱出かとの声も上がったが、再投資計画の一環と報じられている。トランプ大統領の過激なパフォーマンスにもかかわらず、アメリカは香港に留まり続けるに違いない。

 6月3日、かつての宗主国であるイギリスのボリス・ジョンソン首相は有力紙『ザ・タイムズ』に寄稿し、こう表明している。

「中国政府が『香港版国家安全法』を施行し、香港における反中運動の禁止に踏み切った場合、イギリスは移民規則を変更し、数百万の香港住民に対して『英市民権を獲得する道』を開く方針であり、イギリスは香港との関係を維持『せざるを得ない』」

 だが冷静に考えた場合、希望するすべての「香港人」に「英市民権」が与えられたとして、彼らの権利を護るだけの力をイギリス政府は保持しているのか。

 1997年の返還を前に香港を脱出した人の多くが、移住先で得た新たな旅券を手に香港にUターンした事実を思えば、ジョンソン首相が掲げた方針が中国政府に対する“圧力”になるとは思えない。とはいえ、それを返還交渉に際して当時のマーガレット・サッチャー政権が示した「香港投げ売り」に対する“罪滅ぼし”と考えるなら、話はまた別だが。

 もっとも、近年のイギリスが見せた過度の親中外交を推進した張本人が外相当時のジョンソン首相だったことを思えば、『ザ・タイムズ』に掲載された主張の“賞味期限”が突然切れてしまうことも考慮しておく必要があるはずだ。

企業家たちの動向を見極めるべき

 ここで改めて李嘉誠らの中央政府支持表明の背景を考えるに、闇雲に香港の民意に背いたわけではなく、やはり企業家として“それなりの成算”を持って中央政府に寄り添う姿勢を示したに違いない。あるいは彼らの狙いは、習政権が推し進める「粤港澳大湾区構想」における主導権獲得にあるようにも考えられる。

 新型コロナ問題を巡る習政権の対応に、欧米を中心に強い不信感が巻き起こっていることは確かだ。だが、それが安易に習政権脆弱化による中国崩壊論に結びつくほど、国際政治は単純ではないだろう。

 香港を取り巻く内外環境は複雑極まりない。であればこそ、民主化によって香港問題が解決の方向に進みだすなどと考えるのは、やはり安易に過ぎる。

 では、どうすべきか。

 いまは企業家たちの動向を冷静に見極めるべきだろう。彼らの視線を追うことで、習政権の実態が捉えられるのではないか。そこに日本人の中国観の欠陥を補うヒントが見えてくるに違いない。

樋泉克夫
愛知県立大学名誉教授。1947年生れ。香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士課程を経て、外務省専門調査員として在タイ日本大使館勤務(83―85年、88―92年)。98年から愛知県立大学教授を務め、2011年から2017年4月まで愛知大学教授。『「死体」が語る中国文化』(新潮選書)のほか、華僑・華人論、京劇史に関する著書・論文多数。

Foresight 2020年6月10日掲載

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