「横田滋さん」無念の死去、生前に語っていた拉致、心の支えだったアイドル…
“拉致”とハッキリ言って欲しい
北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの父親・横田滋さんが、5日亡くなった。87歳だった。1997年に結成された家族会に加わり、拉致被害者家族のシンボル的な存在として、拉致問題の解決に奔走してきたが、その願いは果たされることがなかった。生前、折に触れて週刊新潮に語っていた言葉を再現する。
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当時13歳で中学1年生だった長女めぐみさんが下校途中に行方不明となったのは1977年11月15日。横田さんは前日に45歳の誕生日を迎え、めぐみさんから「お父さん、これからはオシャレにも気をつけてね」とクシをプレゼントされたばかりだった。
それから20年が経過した97年2月、めぐみさんが北朝鮮に拉致されたことが報道と国会質問で表面化することになった。滋さんは「実名でなければ信じてもらえない」と名前を出して活動することを決意。3月、「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」(家族会)が結成され、滋さんは代表に就任したのだった。その頃、北朝鮮はまだ、朝鮮民主主義人民共和国とも呼称されていた。
その年の10月、北朝鮮に渡った日本人妻がおよそ40年ぶりに里帰りすることになった。しかし、北朝鮮は彼女らの実名を公表せず、一方で外務省はコメ支援を北に約束することになる。
当時、滋さんはこう話していた。
「やはり期待していました。日本人妻の帰国交渉で今度こそ、拉致の実態調査が行われると心待ちにしたのです。しかし、最後に向うに突っぱねられてしまい、本当に残念です。私たちはこれまで、全国を回って街頭で嘆願活動をし、国会議員にも何度も陳情に足を運びました、それでも結局、交渉の窓口になるのは、外務省であり政府なんです。もう少ししっかりしてもらいたい。でないと、何のために嘆願活動を続けているのか、この頃は虚しくなってきています」
偽らざる感情の吐露だったに違いない。また、同じ年の11月、自民党の森喜朗総務会長や野中広務幹事長代理ら、自社さ3党で構成される与党訪朝団がピョンヤンに派遣された。当時すでに日本政府は、横田めぐみさんや1987年の大韓航空機爆破事件で逮捕された金賢姫の教育係だった田口八重子さん(李恩恵)ら7件10人を「北朝鮮に拉致された日本人」として認定し、『警察白書』にもまとめていた。
滋さんは、こんな風に語っている。
「私としては、本音を言えばもう7件10人という数字を出して、先方にも“拉致”とハッキリ言って欲しいという気持ちもあります。ただ、政府間交渉ではないのだから少しぐらい強く言ってもいいのではと思う反面、多少は軟化している北との交渉が決裂しては終りだという思いもあって複雑な心境です。とにかく、行くからには少なくとも“日本人行方不明者の捜索に協力する”という返事だけは貰ってきて欲しい。それも、いつごろまでに、どのくらいの規模で、という具体的な内容が欲しいんです」
2002年の「小泉訪朝」では、めぐみさんら8人「死亡」、5人「生存」と伝えられた。04年には北朝鮮がめぐみさんの「遺骨」を提出したが、日本政府はDNA鑑定の結果、「別人」であることを発表した。のみならず、めぐみさんの「夫」とされる人物も、極秘に採取したDNAから「別人」であることが証明されたのだった。
その時の滋さんの言葉。
「めぐみの場合は、いちおう骨を出してきていますが、他の7人については死んだという根拠が完全になくなってしまいました。ところが、調査はこれで終りなのか、まだ調査中なのか何も言ってきません。誠意ある回答がないならば、やはり経済制裁をするべき時期がやってきたということです。これは家族会、救う会の共通意見でもあるし、政府には強くそれを求めてゆきます」
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